「俳句は五七五に季語の世界で一番短い詩である」という俳人たち定型の能書きを読まされると、この人たちはあまりにも頭が悪いので、何を信じていいのかわかんないんだろうなと思う。たいていの俳人は頭が悪い。これは主観ではなく単なる事実である。五七五に季語を並べれば素晴らしい詩で、これであなたも詩人と善男善女を騙くらかすのは、このベルト一本で長年の腰痛とオサラバと謳う怪しい健康商法と何ら変わらない。俳人は五七五七七なら素晴らしい短歌で、散文を行分けしたら素晴らしい自由詩で、なんでもかんでも形式さえ整っていれば無条件で素晴らしい詩だとでも言うつもりか。それとも俳句だけが例外的形式文学なのか。そんなバカな。詩人ならわかるはずだ。簡単に詩ができるなら苦労しない。しかし現実には芭蕉や蕪村など、神のように仰ぎ見る名句の影のような俳句らしきものを書き散らしているだけだ。
ただまあ俳人には何を言っても無駄である。結社主宰の大半は、他の文学ジャンルのことなど一切知らない、生まれてからこの方気にしたこともないし気にする必要もない、なぜなら俳句が世界で一番素晴らしい詩なんだから、誰もが俳句だけ見ていればいればいいんだ、短歌や自由詩や小説など俳句に比べればたいした文学ではないと本気で言うだろう。徒党を組み衆を頼んで馬耳東風で押し切るのに馴れ切っている。門弟を引き連れて威張っている結社主宰は本当に醜い。自分で詩とは何かを定義する力どころか、そもそも考える能力自体が決定的に欠如しているから「俳句は五七五に季語の世界で一番短い詩である」というお題目に縋り切りで、馬鹿の一つ覚えのように繰り返せるわけだ。あまりにも頭が悪いので何を信じていいのかわかんないんじゃないかというのはそういうことである。自分で一から考える力はないけど文学者の末席に座りたい低能力の人が俳句をやっているとしか思えない。
たいていの俳人は見識が低くて狭い。俳句に一生懸命と言うが、寄り集まっては俳壇噂話というか、その場にいない俳人の悪口と、どこにあるのか誰も把握していない俳壇批判にうつつを抜かしているだけではないか。要するにヒマ。なるほど結社主宰は忙しそうだが、小手先のテニオハを直す技術を磨いているだけだ。そしてテニオハ指導をやめると俳人さんたちは手持ちブタさんでやることがなくなる。俳句が五七五に季語だと信じ込むのと同様に、結社仕事を引き継ぎ俳句メディアから与えられた仕事を従順にこなすだけで、俳句論だろうと俳人論だろうと自分で仕事を作り出す意欲も能力もない。俳壇は異常な世界だが、俳人たちはその異様さにまったく気づかない実に都合のいい鈍感さを持っている。愚劣な俳壇が俳句を文学から遠ざけている。つまりほとんどの俳人は文学をやっている文学者ではない。中途半端な趣味人である。
俳句雑誌を読んでいるとカリカリ来て、たまにだがフラストレーションが爆発してしまう。これでも我慢しているのである。ほんの一握りだが立派な俳人たちがいるからだ。ただ商業句誌で展開される俳人の知的レベルは本当に低い。つい頭が悪い、と本当のことを言いたくなってしまう。桑原武夫の気持ちがわかる。
今号の特集は「大特集「歳時記」徹底活用」。角川俳句ではお馴染みのハウツーモノの定番特集だが、長谷川櫂大先生が鼎談に参加なさっているのでまだ筋が通っている。長谷川大先生の俳句はタイプじゃないけど立派な方だ。あまり威張り散らさなければもっと好感度が上がる。
長谷川 家に歳時記があったので、俳句を始める前から見ていました。本気で俳句をやろうかと思い始めたのが二十歳前後で、そのとき初めて歳時記を買いました。(中略)
片山 私は二十代半ばで俳句を始めましたが、まず季語を知りたいと思い、歳時記を読むことにしました。(中略)
神野 うちにも『図説俳句大歳時記』(角川書店)がありました。母方の祖母が使っていたものです。歳時記は俳句を作ろうが作るまいが、なぜか日本の家にあるものなのですね。
(片山由美子×長谷川櫂×神野紗希 座談会「歳時記の過去・現在・未来」)
歳時記の歴史を辿れば室町末くらいの『季寄せ』に行き着くといった話をどこかで読んだ人は多いだろう。しかしまあ、角川俳句ではそんな歴史的考察は必要ない。歳時記とは俳句を詠む際に参考にする教則本のことである。季節別に季語が並んでいて、季語の解説とともに俳句をひねるための参考になる句が並んでいる。編者によって季語や句の選択、それに解説が違ってくるわけだが、大正時代頃に俳句創作用の手軽なアンチョコ本になって以来、数多くの歳時記が作られている。作る方は大変だが、使う方は誰が編者だろうと気にしない。また一家に一冊歳時記があるかどうかは知らないが、一昔前ならあの分厚い家庭の医学程度には普及していたかもしれない。
歳時記が提起している問題は俳句にとって最重要のものである。俗なことから始めれば、俳句を詠む多くの人は俳句に熱心だから個人名が印刷された句集を買うのだろうか。まず買わない。個人句集は寄贈でもらうものだと思っている。これは初心者でもプロ俳人でも同じである。ではどんな俳句本を買うのか。初心者ならテニオハ指導本に、せいぜい既に評価が確立された先人俳人の俳句アンソロジー本である。しかし歳時記はたいていの俳句好きが複数冊持っている。なぜか。俳句とは歳時記のことだからである。
後世まで優れた俳人として評価されるかどうかは別として、歳時記は時代時代で俳壇で強い力を持った俳人が編む。季語と例句を選ぶわけだから、歳時記を読む読者に一定の影響を与えることもできる。しかし俳人が歳時記でやっていることは何かを考えた方がいい。歳時記で行われているのは俳人の個性の解体である。
強い意志を持ち俳句に一生を捧げ、様々な人生の出来事に彩られた特徴ある俳人の生は、歳時記に収録されることでそのほぼすべて剥ぎ取られる。生涯に詠んだほんの数句が短い解説とともに歳時記に収録される。それは俳人にとって名誉なのだろう。自分の句が俳句を代表する作品として、芭蕉と肩を並べて掲載されるわけだから。
しかしそれは一方で、俳句が歳時記だということを意味している。比喩的に言えば俳句は一冊の歳時記に集約される。ほぼすべての俳人は俳句文学そのものの一冊の本である歳時記に寄与するために存在している。俳句においては常に俳句が主体であり、俳人の唯一無二の個性は従だということだ。俳人は俳句に滅私奉公していると言ってよい。その現実的な表象が歳時記である。
加えて季語である。よほど杓子定規な俳人でない限り破調で俳句を詠むことはある。しかし季語がないと多くの俳人がそれは俳句ではないと嫌悪を露わにする。歳時記はこの俳人の本源的な指向を形にしたものでもある。歳時記で最も重要なのは季語なのだ。近現代短歌はとっくの昔に歌に季語を織り込むことをやめてしまっている。なぜ俳句はかくも執拗に季語に執着するのかを考えることは、俳句文学の本質理解につながる。
片山 「等身大の自分を表現する」とよく聞きますが、そのために俳句なんて不便なものを使う必要はない。そもそも五七五という窮屈な定型でものを言わなくちゃいけないこと自体、現実を離れているわけですよ。だから、俳句を作るのは舞台の上で芝居を演じるようなものです。定型って、そういうもの。しかもそこに季語を入れるとなったらなんて不自由な! でも、その不自由さを楽しむのが俳句だと思います。
長谷川 そうです。季語は全部フィクションだと最初から割り切ったほうがいい。それにのっとって、片山さんの名言によると「演じる」必要がある。それが俳句です。そういうものはウソであるという近代的な倫理観で、「等身大の自分を表現する」なんて、そんなものあるはずがない。だから、そこはやはり演じなくちゃいけない。文学において演じることはいかに大事か。朝顔を秋だと思う人になりきって詠むのが大事だと思う。
(同)
自我意識文学である短歌ならともかく、基本は写生である俳句が「等身大の自分を表現する」という主張には異論がある。思い込みだ。短歌や自由詩や小説と比較すれば、俳句が直截に「自分を表現する」文学ではないことはすぐわかる。それはともかくとして、定型も季語もフィクションであり、ルールにのっとって芝居を演じるような芸術だという議論は面白い。フィクションなら定型や季語はもっと自由度の高いものになるはずだ。しかしそうなっていない。もちろん好き勝手な型を作り、季語を無視していいと言っているわけではない。フィクションであり人工的な決まりごとであるのに、なぜ定型と季語ルールを動かせないのかが最大の問題である。つまり定型も季語も人工的なフィクションではないわけだ。
長谷川 片山さんのように歳時記をルールブックとして考えるのではなく、俳句の将来、未来、可能性とか、それを逆に刺激するようなかたちの例句の選び方があるだろう。そっちのほうがむしろ大事かもしれない。もともと俳句という文学自体が和歌に対するアンチテーゼとして出てきているわけで、和歌の大原則に照らせば俳句なんてとんでもない文学であるわけですよ。そういうところにわれわれが立っている以上、あまりにもルール性を強調するのはどうか。
片山 いえ、遊びはスポーツと同じで、厳密なルールがあるほうが面白いから、なるべく崩さない。崩れていくのに歳時記が加担する必要はないと思う。その中でどう違反をしないようにすり抜けていくか。連句だって規則だらけじゃないですか。
長谷川 あれはやめた方がいいと思う(笑)。重要な規則は要りますよ、例えば季節の巡りとか。だけど、釈教はどうとか、あまりにも規則を厳しく言い過ぎると滅びますよ。植木の剪定と一緒で、ここは伸びてくるかもしれないという芽は残すべきです。
片山 なるほど、名言です。ただし、季節の基本を教えてくれる歳時記が欲しいという人が多いのも確か。
(同)
この箇所の議論を読んで古井由吉さんが昔書いたエッセイを思い出した。古井さんは男を慌てさせパニックに陥らせるのは女の声だという意味のことを書いていた。戦時中の話である。太平洋戦争開戦直後、古井少年は女たちがアイドルのように軍人を崇め、「素敵だわ」と言っているのを聞いた。しかし敗戦の影が濃くなって物資が不足してくると、女たちは「あんたどうすんのよ。だいじょぶなの」と激しく男たちを責め始めた。男たちは女たちの声でいい気になり、女たちの声でパニックになったと書いておられたのだった。
女性の方が思考も感性も柔軟だとは一概には言えない。実際にはその逆のことも多い。片山さんは俳句はゲームであり遊びだという前提で歳時記絶対主義を唱えておられる。それに対してあの杓子定規な長谷川櫂大先生が、いやいやもそっと柔軟に、とやんわりいなしておられる。しかしこれは阿吽の呼吸だろう。片山さんのような有季定型絶対論者がいるから長谷川さんの言葉が活きる。もちろんご両人とも前衛系の無季無韻は認めないはずである。
岡野隆
■ 片山由美子さんの本 ■
■ 長谷川櫂さんの本 ■
■ 神野紗希さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■