今号はなんといっても古市憲寿さんの「平成くん、さようなら」(230枚一挙掲載)である。「平成くん、さようなら」は代替わりの八ヶ月前に発表された小説だが(執筆は一年ほど前か)、時間があるときにまとめて文學界の時評を書いているので、すでに平成から令和に代替わりしてしまった。「平成くん、さようなら」は超短期だが一種の近未来小説であり、代替わりに伴う社会的関心を当て込んだ作品である。その意味で令和に替わってしまった今では、なんとなくネタバレしてしまった感がなくはない。
代替わり前に「平成くん、さようなら」と聞くとなにか変化を期待してしまうが、実際に代替わりになれば、当たり前だが平成と令和は地続きである。つまり代替わり前は「平成くん、さようなら」というタイトルは「平成、終わっちゃうんだね」といった茫漠とした感傷を伴って人々の関心を惹き付けられるが、代替わり後はそのタイトルと内容は古市さん個人のものとなるということだ。ネタバレしているような感じがするとはそういうことである。つまり作家のちょっとあざとい意図が透けて見えてしまったところがある。
ただ古市さん個人の思想・感情が表現された「平成くん、さようなら」は優れた小説である。「平成くん、さようなら」は芥川賞候補になったが受賞を逃した。古市さんはガッカリなさったようだが気持ちはよくわかる。敏感に社会情勢を察知してタイムリーな作品を書くのはどの作家でもやっている。超短期近未来小説というナマモノであるからこそ、芥川賞を受賞すればこの作品はもっと売れたかもしれない。
古市さんは社会学者として「ご時世に合わせてドンピシャの小説を書いたのに、わかってないなー」とガッカリされたのだろう。本を売りたいならこの作品はうってつけだった。少なくとも又吉さんの『火花』が芥川賞を受賞して「平成くん、さようなら」が受賞しなかったのは運の問題としか思えない。現代という時代性を捉えたという意味では、漫才師の内幕を描いた『火花』より「平成くん、さようなら」の方が圧倒的に優れている。
彼から安楽死を考えていると打ち明けられたのは、私がアマゾンで女性用バイブレーターのカスタマーレビューを読んでいる時だった。(中略)
1989年1月8日生まれの彼は、今年で29歳になった。彼が社会から注目されるきっかけになったのは、今から7年前のことである。22歳の時に書いた大学の卒業論文が指導教授と編集者の目に留まり、単行本として出版されたのだ。(中略)論文は、当時話題になっていた原子力発電所で働く若者たちに丹念な聞き取り調査を行い、原発の功罪を描き出したものだった。(中略)
本は出版後たちまち話題になり、メディアは震災の話題を扱うたびにこぞって彼を取り上げた。1、2年もしないうちに、この国はすっかり震災に対する興味を失ってしまったが、彼は得意とする分野を次々と替えていった。(中略)
彼はファーストネームを平成という。この国が平成に改元された日に生まれたという安易な命名なのだが、結果的にその名前は彼の人生に大きく貢献することになった。彼は「平成くん」と呼ばれることで、まるで「平成」という時代を象徴する人物のようにメディアが扱い始めたのだ。
(古市憲寿「平成くん、さようなら」)
この小説は平成元年に生まれた「平成くん」と呼ばれる青年が安楽死を求める物語である。彼は時代の寵児だ。卒業論文がいきなり単行本化され、社会批評家として有名になった。出世作は平成二十三年の東日本大震災後に、大きな社会的関心を呼んだ原発の功罪を論じた本だった。ただ彼はいつまでも原発問題にしがみつかなかった。その後も次々に新たな社会動向を論じ、いつしか平成を代表する若手社会批評家になっていった。彼の風貌は「宇宙人のような逆三角形の輪郭の小さな顔。目元までを覆うような重たい前髪。細いながらも眼光の鋭い目。だけど唇は分厚くて、モデルといわれても、連続殺人犯といわれても、納得できてしまうような顔つき」とあるので、古市さん自身がモデルだろう。
ただ小説の語り手は平成くんではない。恋人の「愛」という女性が平成くんについて語る形を取っている。自らをモデルにしてできるだけ自己を客体化して描こうとしているという意味で純文学である。愛(小説内では語り手の「私」)は基本的に普通の若い女の子だ。平成くんを恋人と考え、漠然とだが結婚して子供を持ってもよいと思っている。小説冒頭でバイブレーター云々の記述があるが、平成くんはセックスに積極的ではない。潔癖症で裸で身体を合わせることを嫌い、食べものの好き嫌いなども激しい。一種独特の思考回路を持った青年で社会批評家らしく理屈っぽくもある。
しかしそれは普通の人より変わった所が多いというだけで、平成くんは超のつく変人ではない。毎日のようにテレビやラジオに出演し、ベストセラーになるような社会批評本を書く高い社会性を持っている。当然かなりのお金を稼いでいて、都心の高級マンションに住み衣服や食事も一流だ。稼いだお金を湯水のように蕩尽している。お金には基本的に興味がないというところが平成くんらしいと言えばらしい。ただ若くして有名でお金持ちになった、人がうらやむような社会的名士に違いない。ではなぜ平成くんは安楽死を望むのか。
「僕はもう、終わった人間だと思うんだ」(中略)
「控えめに言っても、僕はラッキーだったと思うんだ。この名前のおかげで、若い時から社会の注目を浴びることができた。明らかに、実力以上にスポットライトを当てられ続けてきた。その分、努力もしてきたつもりだよ。少しでも時間が空けば、ジャンルを問わずに本を読んだり、様々な階層で暮らす、様々な世代の人と会うようにしてきた。とにかく最新の人でありたかったんだ。その試みは、ある程度の成功は収めてきたと思う。いくつかの本は売れたし、最近では脚本の仕事もうまくいっている。だけど、ふと考えてしまったんだ。僕に未来はあるのかって」(中略)
「あと一年くらいで平成が終わるということもあって、最近の僕は忙しい。平成を振り返るテレビ番組や出版物が多いからね。平成代表の面目躍如だと思って、依頼はできるだけ引き受けるようにしている。でも、平成が終わった瞬間から、僕は間違いなく古い人間になってしまう。もちろん、急に仕事がなくなることはないと思うよ。僕はそれなりに文章が書けるし、そこそこ面白い話ならできる。僕のことを好いてくれる人も、少なくはない。だけどもはや、新しい人でなくなる。時代を背負った人間は、必ず古くなっちゃうんだよ。(後略)」
(同)
小説では、現代日本では安楽死が合法化されているという設定である。安楽死を望むのは高齢の人が多いが、年齢に関わらず、本人の意志が固くそれなりの理由があれば誰でも安楽死できる。平成くんは積極的に、時には恋人の愛を連れて安楽死の現場を取材する。本を書くためではなく、自分の安楽死をどのように行うのかプランを練るためである。安楽死では葬式のようなセレモニーを行い、これから安楽死する人が列席者に謝意を述べて死ぬのが一般的のようだ。
安楽死を選択する理由は様々だが、平成くんの場合は自分が「終わった人間」だと感じること、平成が終わってしまった瞬間に、自分は「古い人間になってしまう」ということである。理由は本当にそれだけだ。ただ平成くんが語る理由には、時代の病といったようなものが表現されている。
小説の後半で平成くんは愛に、実は急速に視力が失われていく病気に罹っていて、近いうちに失明してしまうんだと告白する。「いくら日本でも、平成が終わって時代遅れになりそうですって理由だけじゃ、安楽死は認められないよ」とも言う。ただこれは現代日本では安楽死が認められているという設定と同様に、小説的フィクションに過ぎない。愛は「目が全く見えなくなったら、恋愛でもしまくったら? 視覚情報抜きで、誰かを愛せるなんて夢のある話じゃん」と言う。視覚を失うのは安楽死の決定的要因ではない。
平成くんはコンピュータなどの技術にも詳しい。社会批評家で失明が仕事に致命的影響を与える画家や写真家ではないのだから、耳から情報を仕入れて従来通りテレビ出演して講演を行い、口述筆記で著述業を続けることも可能だろう。その方が人気が出るかもしれない。
端的に言えば平成くんが安楽死を選ぶのは、時間をかけて将来的に為すべき仕事がないからである。そのため人気も名声もピークのうちに死んだ方がいいのではないかと考えている。その意味で平成くんは絶望している。
「平成というのは昭和のツケを払い続けた時代でした。不良債権処理、隣国との歴史認識問題、巨額の財政赤字、廃炉もままならない原発。平成が向き合ってきた問題は、もとはといえば昭和の失敗に起因しています。昭和を終わらせることが、平成という時代の宿命と言ってもいい。昭和もろとも、平成を終わらせないといけないんです」
(同)
小説の中で平成くんの社会批評をうかがい知ることができるのは引用の一文のみである。読んでわかるように薄っぺらい。問題を列挙しているに過ぎず、こうしなければいけないと力強く述べながら、その方法は見えない。昭和が終わっても平成が終わっても、元号の移りかわりくらいで数々の社会問題が解消されるわけがない。ただ若者が威勢良く問題点を列挙すれば大人が黙る時代だ。なぜか。将来の展望が見えにくいからである。
五十、六十代のいい年をした大人は司会者に収まることはあっても、もはやオピニオンリーダーではない。複数の若者を差配しながらその意見に耳を傾ける。将来が捉えにくいということは現代が捉えにくいということであり、若者なら現代を捉えられるだろうという思い込みがあるからである。いわゆる〝おばあちゃんの知恵袋〟が現代ほど無意味になった時代はない。
どのジャンルでも年長者は、知識は溜め込んでいるかもしれないが、それを有効に活かせない腰の重い人たちになっている。では若者はそうではないのか。そうではないのである。彼らは若い。つまり時間的余裕がある。それだけでも人生の大半を注ぎ込んで知恵や経験を溜め込み、かつそれらを将来のヴィジョンに役立てない年寄りよりマシだ。
ただ平成くんは彼の若さが作り出した地位や名声が、脆い基盤の上に形作られたものだということに気づいている。平成の終わり、つまり三十歳という年齢が分岐点になるかもしれないという予感を持っている。その意味で古市さんは同時代のオピニオンリーダーたちよりも遙かに知的だ。
では平成くん的知性――彼を時代の寵児にした知性とはどんな質のものなのだろうか。なぜ平成が終わる三十歳くらいの年になると、彼は「新しい人でなくなる。時代を背負った人間は、必ず古くなっちゃう」のだろうか。
平成くんに促されて白い箱を開けると、グーグルホームのようなスピーカーが入っていた。(中略)
「ねえ平成くん、このスマートスピーカーを3ヶ月かけて作ってたの?」
「そうだよ」
「そうだよ」
本物の平成くんと、スマートスピーカーが同時に答えた。
「「想定外」という言葉が、珍しい事象を指して使われるように、僕たちは普段「想定」の中を生きている。僕の行動も、ほとんどは「想定内」のはずだ。「想定」は僕のアーカイブから構成される。そして幸いなことに、僕は人よりも多くのアーカイブを残してきた。個人的なLINEやメールはもちろん、本やテレビ、ツイッターで、たくさんの言葉を発信してきたからね。しかも、僕はある程度理知的で、論理的な人間だ。だから機械学習で僕を再現することはそれほど難しくないんじゃないかって思ったんだよ。(後略)」
(同)
平成くんは安楽死をやめたわけではないが、愛に「ある日を境に、急に消えることはないと思ったんだ。古代でいう殯みたいなものかな」と言って、人前に出る仕事を休んで長い旅に出ることにしたと言う。愛は連れていかない一人旅だ。いつ帰るかはわからない。もしかすると帰ってこないかもしれない。ただ平成くんは出発前に時間をかけてスマートスピーカーを作り、愛に残した。
スマートスピーカーは平成くんの言動アーカイブに基づいたAI会話マシンで、話しかけると平成くんがそこにいるように答えてくれる。平成くんはAIを活用すれば自分の将来の仕事も作り出すことができ、CGで自分の姿を再現してテレビなどに出演することもできるようになるだろうと言う。生身の平成くんは愛はもちろん友人や仕事仲間の前から姿を消すが、AIテクノロジーによって不在は埋められるはずだと言うのである。
もちろん現在のAIにそんな技術はなく、これも小説的フィクションである。ただ平成くんがAIによって再現できるということは、彼の知的活動の大半が〝情報〟であることを示している。平成くんは精力的に取材する人だが、それを発表した途端に情報として万人に共有される。平成くん自身も他者の情報を活用して知的発言を行っている。つまり極論を言えば、現代的知性とは情報取捨選択とその組み合わせ能力である。ものすごく乱暴な言い方になるが、パソコンが苦手と言明してはばからない人は、決して現代的知性を得られない。
愛は「いつか平成くんは「グーグルは僕そのもの」と言っていた」と語る。社会批評家である平成くんが、日本はもちろん諸外国の機密情報に精通しているわけがない。ただグーグル(ネット)を介して膨大な情報が万人に対して開かれている。その膨大な情報の取捨選択と組み合わせが現代人の知性になっているのは確かなことだ。次々に移り変わるトレンドを社会問題に結びつけて、一瞬であろうと新たな社会の見方(切り口)を提供できるという意味で、情報化社会では若者に一定のアドバンテージがある。
ただ平成くんは、そのような情報化社会の知性の薄っぺらさ、弱さを知っている。少なくとも目先の利く人間が、自分と同じような方法で社会で頭角を現してゆくだろうと予感している。それが平成の終わりとともに、自分が「古い人間になっちゃう」ということの意味である。つまり現代的知性は決して個人独自の専売特許ではなく、目先の利く人なら真似できるのだ。平成くん的オピニオンリーダーは次々と生まれてくるのであり、当然年齢が若い方が強い訴求力がある。
「ねえ平成くん、自分でいうのも何だけど、この国で一番自由で、一番不自由しない立場の一つが、ビッグコンテンツの著作権の家族じゃないかな。昔からのお金持ちと違って自由はあるし、起業家と違って成金扱いもされない。自由で、お金はあって、しかも文化的。平成くんに結婚願望がなかったとしても、私には一生、平成くんを困らせない自信があるよ。お父さんが死んだのが1999年。『ブブニャニャ』の著作権が切れるのは2019年だからあと31年もある。TPPで著作権の保護期間が伸びたら2069年だよ。私たち、ずっとお金には困らないんだよ」
(同)
「平成くん、さようなら」では、語り手で実質的主人公・平成くんの恋人である愛の造形も優れている。愛は超有名なマンガコンテンツ『ブブニャニャ』の著作権継承者であり、平成くんと同等かそれ以上の裕福な生活を送っている。平成くんがセックス嫌いなので、彼が長期で家出した時などは、適当にボーイフレンドとセックスして遊んでいる。もちろん平成くんを愛していることには変わりない。また平成くんはセックスの関係を重視しない人である。一般的には珍しいかもしれないが、愛情とセックスは別という男女関係の自由を共有している愛と平成くんは似合いのカップルである。
アメリカをセンターとする高度資本主義国家が、製造業から金融と知的所有権に資本活動を移行させようとしているのは誰の目にも明らかである。どんどん知的所有権の期間は延びておりそれは間違いなく日本にも及ぶ。「この国で一番自由で、一番不自由しない立場の一つが、ビッグコンテンツの著作権の家族」だという愛の言葉は正しい。不動産業などの不労所得よりも遙かにリスクの低いビジネスである。
愛を有名コンテンツの著作権継承者に設定したのは、多くの若者の有名になりたい、社会で頭角を現したい--しかもサラリーマンや多額の投資が必要な実業ではなく、元手はほんのちょっとで個人で好きなことだけやる自営業で--という欲望が、ほとんどの場合、結局は金を得るのが目的だと古市さんが見切っていることを示している。一番楽をして安定した収入を得られるのが有名コンテンツの著作権継承者かもしれない。
ただ平成くんは愛の申し出に乗らない。また彼は情報の取捨選択と組み合わせによる現代的知性の底の浅さを意識しているが、かといってオリジナルのコンテンツを生み出す作業を信じ切れているわけでもない。人間の唯一無二の自我意識が生み出すオリジナリティを信じ切れていないというより、情報化社会では唯一無二の自我意識、オリジナリティなどあるんだろうかと疑っていると言った方がいいだろう。
もちろん平成くんは学歴社会での勝者(強者)である。有名大学を卒業して学者としての実績もあると設定されている。ただ一昔前の学歴社会の勝者と今の勝者は質が違っている。言ってみればそれはゲームのクリアに近い。現代日本では経済的貧富の格差が社会問題になっているが、それは学歴社会においても同様なのだ。
学歴社会の勝者の一部は確実に学歴ゲームのクリアノウハウを知っている。超難関大学に合格して弁護士試験や国家公務員一種試験をパスしようと、それはゲームのクリアノウハウを知っているだけで、社会人として優秀とは限らない。学歴だけ見れば超エリートは増えているが、別に社会が大きく変わる気配はない。経済に余裕のある家庭では子弟をインターに通わせたり海外留学させたりして、受験戦争をスルリと抜けてAOで有名大学に入学させることなども行われている。この方法も飽和に近づいているほと盛んだ。一種の情報勝者と敗者が学歴にまで及んでいるのが現代社会である。
目的があって勉強し高い学歴を得るのではなく、目先のゲームをクリアするうちに高学歴になってゆくのが現代的知性の一つのあり方である。M&A会社で超高給を取るエリートサラリーマンが登場する加藤秀行さんの「サバイブ」でも、エリートたちは高校生くらいの時にストリートファイターに熱中し、軽く全画面をクリアしていたという記述があった。
比喩的に言えば、現代ではそれほど優秀でない若者はゲームの一面をクリアしただけで何事か大きな事を成し遂げたように感じる。閉じた世界での自己評価の高さは破滅への第一歩だ。ツイッターでの「いいね」集めなども同様である。本当に優秀な若者は次々にゲームソフトをクリアしていって、さて、次はどうしようかと考える。真摯な者は真剣に悩む。ただエリートたちは与えられたゲームのクリアに熱中できるという意味で、社会システムや年長者に意外に従順でもある。不平は敗者の側に澱のように溜まるがそれが社会を大きく動かすことはない。勝者は空しさを抱えながら現状に満足せざるを得ない。新しい質かもしれないが、現代的知性を十全に活かせないのは若者も同じだ。
「平成くん、さようなら」は、そのような現代的若者の知的状況を描き切った秀作である。ただ作家は小説世界より一段高い審級にいて世界全体を眺めている。自己と同時代をこれだけ相対化できているわけだから、いずれ飽和に達する情報化社会の知を抜けた新しい知性のあり方を提示できる可能性もある。古市さんの次回作がとても楽しみだ。
大篠夏彦
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