小原眞紀子さんの連作詩篇『Currency』『回』(第09回)をアップしましたぁ。金魚屋から『文学とセクシュアリティ-現代に読む『源氏物語』』を好評発売中の小原さんの新作詩篇です。
最後に重要なことは
抜けること
めぐる季節から
足を抜き
もはやぐるぐる回らない
(小原眞紀子『回』)
とありますが、〝抜けること〟は小原さんの専売特許のようなところがありますねぇ。
文学金魚創刊時に遡りますが、総合文学というコンセプトはかなり小原さんのアイディアに拠っているところがあります。短歌・俳句は日本の伝統文学で形式がありますから、歌人・俳人はアイデンティティにあまりこだわりませんね。逆に言えば『短歌とは何か?』、『俳句とは?』と論じ出す歌人・俳人は短歌・俳句を相対化できている人が多い。他ジャンルでも活躍できる人が自己ジャンルを相対化して捉えられるわけです。たいていの歌人・俳人は575や57577を絶対的規範として受け入れています。
これは小説も同じようなものです。小説を相対化できている小説家はとても少ない。俗な言い方をすれば『小説家になりたい』という動機で見よう見まねで小説を書き始め、肉体感覚で小説のアイデンティティのようなものを体得していきます。これはこれで、肉体労働者・小説家らしい方法ではあります。
しかし一部の自由詩の詩人たちは違う。自由詩は形式的にも内容的にも一切の制約がありません。つまり詩人が自由詩とは何か?という定義を自分で見出し作らなければなりません。それができる詩人は一握りです。たいていの詩人は〝詩的〟というレベルに留まっています。〝詩とは何か?〟を把握しようとした詩人だけが〝詩〟を自在に書くことができる。
この自由詩人の原理的姿勢は他のジャンルにも向かいます。小説などを書く時も、小説とは何か?をまず把握しようとするわけです。原理をつかんだ方が結局は早道という姿勢があるわけですが、これは漱石などと同じですね。漱石も小説文学の原理をつかんでから作品を書き始めた。漱石に小説の習作は一編も残っていないのです。
小原さんは詩から始めて小説を書き、しかも大衆文学寄りのサスペンス小説に純文学的要素を織り交ぜようとしています。それが彼女の小説文学の原理的理解から発生した作品姿勢です。そういったことは評論活動でも行われているわけで、『文学とセクシュアリティ』を読めば詩人の凄みがわかります。
■ 小原眞紀子 連作詩篇『Currency』『回』(第09回)縦書版 ■
■ 小原眞紀子 連作詩篇『Currency』『回』(第09回)横書版 ■
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■ 第6、7回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項 ■
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