連載翻訳小説 e.e.カミングズ著/星隆弘訳『伽藍』(第19回)をアップしましたぁ。『第四章 新入り』の続きです。翻訳は裏切りだと言ったのはT・S・エリオットでしたっけね。確かにその通りで、翻訳で外国文学のニュアンスまで再現することはできません。原文で作品を読んだことのある方ならわかりますよね。ただ二葉亭四迷が言文一致体小説を書く際に、ツルゲーネフの翻訳を実際にしてみてヒントにしたという話はよく知られています。原文を日本語に訳す際の落差も含めてそれは一定の影響力を持ちます。
飛び去って行く亡霊を追って無意識に六歩か八歩進んだとき、ちょうど俺の頭上で、灰色の石壁が女の暗影にひしと凍りついた、がその硬さと角張りは蟠(わだかま)ってのたうつ笑い声の膿んではじけた発散を浴びてたちまち和らいだ。びくっとして、見上げると、むさ苦しい面の四つ組み合わさった大首(ばけもの)がぎゅうぎゅう詰になった窓に直面した。物欲しそうに一点集中した四つの頭の鉢には青灰色の蓬髪が絡まり合い、ぶすぶすと盛んに燻る品性下劣な四対の目玉、歯抜けのニチャニチャ笑いに顫える八枚の唇。しかしこの物の怪どもを凌駕したのはその背後から一人ぬっと頭を突き出す美に覚えた戦慄(おののき)だった――溌剌として清々しいおでこ、うら若き象牙色のすっぴん顔、夜を溶かした黒髪の氷のごとく凛とした芯の強さと艶ややかさ、白く輝く怖気立つほど屈託のない笑顔。
(e.e.カミングズ著/星隆弘訳『伽藍』)
カミングズに限りませんが、アメリカ文学の書き方は引用のようなものです。現実が抽象化されているわけですが、この書き方は作者(見て叙述する者)と見られるものが対等の関係にあります。喩的表現は現実の輪郭を持っているのであり、いつでも現実そのものに還元できます。
これに対して日本の、特に純文学では作者が見られるものより上に立つ場合が多い。作者の中で現実が抽象化されていて、その抽象化が現実の上位審級にある。だから現実の手触りが希薄になる。純文学小説が短編なら比較的秀作になりやすいのに、長編になると途端に読むのが苦行になる理由の一つです。抽象化された叙述は小説を単調にしてしまうのです。
アメリカ文学的な書き方をする典型的な作家は村上春樹さんですね。たいていは現実事物の輪郭を持って描写を行うのですが、ここぞと言うときに本質の抽象化(叙述)が起こる。だから喩的表現が効果的になる。
私小説的な抽象化文法は、日本文学というより日本文化全般で見られます。日本人は具体的事物を抽象化するのが得意なのです。しかし現実事物の輪郭を残して抽象化すること――つまり細部に至るまで、いつでも現実の残酷さや無味乾燥に戻ることのできる文法(文化)は不得意です。得意分野に違和の文化を取り入れることが、常に新しい表現を生みます。
■ e.e.カミングズ著/星隆弘訳 連載翻訳小説『伽藍』『第四章 新入り』(第19回)縦書版 ■
■ e.e.カミングズ著/星隆弘訳 連載翻訳小説『伽藍』『第四章 新入り』(第19回)横書版 ■
■ 第06回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項 ■
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