このたびの安井浩司「俳句と書」展の開催を前に、『文学金魚』にて俳句誌時評を連載している私にもなんか書けと、鬼の石川編集スタッフからメールをいただいたのがつい先週のこと。もちろん俳句門外漢の私でも安井浩司という孤高俳人は知ってますし、書けと言われなくても書いてみたいのは山々ですが、安井浩司の俳句をいまから全句集で読み返すといっても増補版は1000ページを超える大冊なうえに、その俳句自体がすらすら読み通せるような花鳥諷詠の俳句とは対極にあるもんですから、ことはそう簡単ではありません。
とりあえず全句集を机の上に置いてはみたものの、表紙を開くまでにはそれ相当の勇気が必要です。なにせ前衛俳句と根源俳句の主導者という、現代俳句の最前線に双璧をなすといっても過言ではない、高柳重信と永田耕衣の両者に師事した俳人ですから、全句集なんか持ち出したところで、その全体像を論評するのは生半可な気持ちでは不可能に近い。安井俳句のどこをどう切り取って料理しようかと悩んでいるところへ、さらに追い討ちをかけるかのように石川氏から届いた荷物をあけると、墨書展カタログのゲラといっしょに、「未定」(特別号・安井浩司特集)と題された分厚い雑誌が出てきました。
「未定」は俳句の同人誌で、いわゆる結社誌が結社の主宰者個人の意図で編集されているのとは違い、所属する同人それぞれが対等な立場で作品や論文を持ち寄って作っているようです。このほかにも、私が連載で時評している角川の月刊「俳句」といった、結社や同人の枠を超えた俳壇的な業界誌である俳句総合誌があります。編集人の意図するところは明確です。俳句総合誌「俳句」を時評する視点で、つまり同人や結社という横並びの価値観から抜け出すような、いってみれば俳壇的な上から目線によって、同人誌「未定」の安井浩司特集を俳句史的に評価せよということです。
評価せよといってもこの「未定」特別号が出たのは今から16年前の1996年です。いくら安井浩司特集号とはいえ、いま振り返るだけの価値があるのかどうか、最初はいささか疑問でした。しかし、墨書展のカタログに掲載する最新の安井浩司年譜によれば、俳句の総合誌はもちろんのこと、同人誌や結社誌をとおして安井浩司を単独特集したのは、この「未定」ただ1冊きりなのです。「未定」としてもこの特集号で70号目とのことですが、「なにしろ、『未定』創刊以来、はじめての大冊である」と編集後記で誇らしげにうたっているとおり、総ページ数240ページという同人誌にあるまじき大規模な特集号で、発刊当時の衝撃がいまなお伝わってくる一冊です。おそらく当時は俳壇に留まらない広いジャンルで、無視し得ない文学的事件として捉えられたのではないでしょうか。
しかしそう考えれば考えるほど、逆にそれまでの安井氏に対する関心が、俳壇内で不当なほど低かったということに否応なく気付かされます。そのあたりの状況を前述の編集後記から引用してみます。
安井浩司氏が、俳句表現史上、端倪すべからざるすぐれた句業を積んできたにもかかわらず、現在の俳句界において、氏の存在や句業に対する関心が、ごく一部を除いてあまりにも希薄であり、その句業の重みに比して、実に不当な評価を受けていると判断したためである。(中略)これまで、安井浩司氏の作品は、しかるべきアンソロジーに収録されたことがなく、また、総合誌においても、氏の句業にふさわしい特集は組まれたことがなかった。この事態は、俳句そのものに対する俳句界の怠慢を証する以外の何ものでもない。
〈「未定」第70号・安井浩司特集号より〉
はっきりいって「未定」は俳句界に対して怒っているわけです。この純粋な怒りが、同人誌にあるまじき大冊を成し遂げるエネルギーにほかならなかったのでしょう。当時、安井氏は還暦を迎えたばかりで、第8句集『乾坤』、第9句集『氾人』を経て、第10句集『汝と我』において、前衛という範疇を突き破ったある種の「凄み」を獲得し、そして全句集発刊と、メジャーポエットへの階段を登り始めたといったところでした。われわれのように俳句界以外に身を置く輩のあいだでも、とくに現代詩の関係者に多かったと思われますが、全句集発刊によって安井浩司再評価の機運が高まりつつあったのは確かです。
この安井浩司特集のそもそもの発端は、その年の2月に、「未定」と肩を並べるもうひとつの俳句同人誌「豈(あに)」との共催で開かれた「安井浩司を囲む会」にあったとのことです。その会の様子を、安井氏のただひとりのお弟子さんであられる豊口陽子氏が、特集号の巻末に書いています。会の開催意図はもちろん、当時の安井氏の評価も含めて、短い文章ながら大変分り易く書かれているので引用してみます。
この会は、本年2月に還暦を迎える安井浩司氏を祝い、また、一九九三年に刊行された『安井浩司全句集』の上木をも合わせて祝うことを目的としたが、内容的意図は、現在、俳句形式の可能性に対してもっとも尖鋭的に挑戦し、それを作品世界の中で具現している安井浩司という作家をどう捉えるかを志ある俳人達で語り合い、安井氏の難解といわれる秘密工房の一端なりを作者自らに語っていただければ、という真摯なものであった。
〈「安井浩司を囲む会」報告紀より〉
文末の付記で、この会の様子が読売新聞の夕刊に掲載された際、「未定」と「豈」が現代俳句の最前線を担う誌として紹介されたと書かれています。当時それは間違いのない評価であったと思いますが、「未定」といい「豈」といい、その同人はほとんどが安井氏より年下の、俳壇の中では若手に属する俳人といってもいいでしょう。であるからには、安井浩司特集号にしろ「囲む会」にしろ、その目的はなによりも長老的な価値観が支配する旧態依然とした俳壇に一石を投じることではなかったでしょうか。この投じられた一石の評価以外に、「未定」安井浩司特集号の俳句史的評価はありえないと考えます。
たしかに「未定」安井浩司特集号の傑出した内容は、その目次を眺めるだけでもある程度は理解できます。巻頭に安井氏の新作50句と「来し方について」と題したエッセイ、そして「安井浩司に対する十の質問」が24ページに亘り続きます。ですが、この特集号の中心は、なんといっても同人内外から寄せられた29人による評論に他なりません。再三引き合いに出しますが編集後記にもそのことがしっかりと記されています。
さて、今号の企画の最大の特徴は、本誌が同人誌でありながら、かなり総合誌的な要素を加味した点にある。何よりも、安井浩司氏を含めての多人数に及ぶ『未定』外部の俳人、詩人、評論家の面々に御寄稿を依頼したことが挙げられよう。
安井氏を除けば実に9名が外部寄稿者です。俳句に限らず同人誌で3分の1が外部からの寄稿というのも異例のことで、それだけ安井俳句の読者が広範にわたっているという事実をうかがわせます。評論の中身ですが、ひとつひとつを紹介するスペースがないのが残念なぐらい、論者それぞれの安井俳句に対する「愛情物語」がせつせつと語られており、俳句の若い世代に対するその影響の大きさを知ることができます。「愛情物語」とはけっして揶揄して言っているわけではありません。ほとんどの論は、安井浩司という一俳人の人物像を離れて、その作品テクストに対する執拗な読みから展開されており、さすがに現代俳句の最前線を担うにふさわしい質の高い評論であるといえます。そしてこうしたテクスト論は、テクストへの愛情といっていいほどの執着があってこそ書けるものなのです。
「未定」外部からの寄稿のうち、俳人である阿部鬼九男氏の「精神ユニット―安井浩司論への伴走」は、安井俳句の出発から現在までの流れを、西洋思想の二元論がアニミズムを通過することで東洋的一元論へと転換する経緯として辿りなおします。そして当時の最新句集である『汝と我』を、「汝」と「我」が分化した主客の関係から抜け出し、自己同一性のなかで無意識な精神ユニットを構築した果ての、自己の他者性というシステマティックな関係性へと至る道行きと捉えます。
また川名大(だい)氏は、研究者という実作から離れたスタンスで俳句文学を考え続けてきた稀有な評論家ですが、「安井ランドの気儘な散歩」というディズニーランドのガイドブックのようなタイトルで、難解といわれる安井俳句を分りやすく解きほぐします。「安井浩司の俳句が難解なのは、そのようにして形成されてきた言語能力の水準と質とが、私と安井とでは隔絶していることに因っていよう」とはいうものの、川名氏は経験的な言語能力の差異を迂回することで、つまり言語から経験という極私的な要素を排除したうえで、テクストの表層から深層へと辿ります。その執拗なテクストの読みは、一般的な俳句評釈の範疇を逸脱するものですが、であるからこそ十分刺激的ともいえます。
外部寄稿をもうひとつ。最近の総合誌でも論客として引っ張りだこの筑紫磐井氏が、「牛の尾となる心―狭量なる安井浩司私論」として、安井浩司の句集中もっとも発行部数の少ない『牛尾心抄』を取り上げています。氏いわく、「安井浩司の中で最大の断層と見ることができる」というこの句集ですが、こうした予見は、最新句集『空なる芭蕉』から振り返ることで十分うなずけるものであり、15年以上も前にこのような認識にたどり着いた筑紫氏は、瞠目に値するといえるでしょう。その後の御活躍も当然です。
「未定」同人の論考もひとつ取り上げましょう。大井ゆみこ氏の「風の言語―安井浩司論への序章」は、序章と題されているように、大井氏の安井俳句に対するさまざまな思いが全てといってもいいぐらい詰め込まれている力作です。論の視点も俳句ジャンルから現代詩ジャンルまでを見渡す幅広い振幅があり、それだけ大井氏にとって安井俳句が多様な解釈を生む対象と感じられていることが分ります。いささか既存の解釈に引っ張られるようなところは見受けられますが、これから本論へと入っていけば、そうした曖昧な仮説も自論としてくっきりと形作られていくことでしょう。なによりも大井氏の文章のあちこちからは、安井浩司に対する濃密なリスペクトが感じられます。これだけの愛情をもって対称に向き合えるのですから、今後の論の展開がじゅうぶん期待できます。私は寡聞にして序論以降の展開を目にしたことがないのですが、すでに書いているなら是非読みたいと思います。
ということで、「未定」安井浩司特集号の中枢企画である評論の部から、代表的な論考を4編ほど紹介しました。ほか25編の評論も、その内容は別として、安井俳句に対する論者のスタンスは、大きくこの4パターンに集約されるといっても過言ではありません。安井俳句の全体像を、既存の思想体系の隠喩として読み解こうとするタイプ。安井浩司の代表句を評釈しながら、それぞれの世界像を安井俳句の全体像へと抽象化するタイプ。安井浩司の一句または一句集に読解の焦点を絞り、全体像に対する変容を語ることで安井俳句の特色を構築するタイプ。安井俳句に対する論者の共感を語ることで、論者の自画像としての安井浩司像を仮構するタイプ。一見バラエティ豊かなように見える安井論ですが、自由に語り得るほど安井俳句は単純ではないようです。
しかし、これほどの質量ともに充実した評論をそろえた安井浩司特集号ですが、投じられた一石により大きな波紋が広がることはなかったようです。その要因はいくつか考えられますが、その一つは誌面の編集にあったと思われます。評論がバラエティ豊かに見えるということは、逆に捉えれば焦点が絞りきれていないことに尽きます。俳壇はもちろん、俳句以外の文学ジャンルの読者にとっても、「これほど若手がエネルギーを注ぐ安井浩司の俳句とはいったい何なのか」が最大の関心事のはずです。であればそうした読者のニーズに敏感な編集誌面を作るべきでした。たとえば評論をあらかじめテーマ別に書いたうえで、各テーマの中で広く浅い論から狭く深い論へと導くような、読者を念頭に置いた編集方針が必要でした。
この読者の理解を念頭に置くということは、俳句に限らずことのほか重要です。よく「俳句作品は場の理解によって作られる」という言葉を耳にしますが、安井浩司の俳句も、文学ジャンルに関わる人たちの広範な理解があって初めて、俳句作品として語るべき存在になると思います。これは想像にしか過ぎませんが、「未定」安井浩司特集号は、俳壇を初めとした文学の世界に大きな驚きをもって受け入れられた割には、隅から隅まで通読した人は極めて少人数ではなかったでしょうか。残念なことですが、安井浩司の俳句もまた同じように、大きな衝撃とともに出現したにもかかわらず、必ずしも多くの人に読まれるまでには至っていないというのが現状だと思います。
さて、こうした個人作家特集でことのほか重要なのは資料です。安井浩司特集号にも巻末に資料的意味合いの文章が掲載されています。金子弘保氏による「安井浩司著書解題」です。安井浩司の著書は、処女句集以来そのほとんどすべてが限定少部数出版です。せいぜい多くても300部程度で、書店で手に入り難いうえに高価な古書値がついています。こうした事情をかんがみるに、今後の安井研究にとって書誌の重要度は計り知れません。書誌というと書誌学という立派な研究ジャンルがあるにもかかわらず、日本文学の世界では常に作家研究の後塵を拝しているのが現状です。俳句の世界とて例外ではないでしょう。そんななかで書誌資料に目を向ける「未定」の見識はじゅうぶん評価に値します。
金子氏の解題は、単なる発刊情報に留まることなく、発刊に至るまでの経緯や、発刊に当たっての著者の意図を詳細に記録しています。金子氏は、「詩や俳句のいわば〈純粋読者〉であるとともに、ヨーロッパで言うところの“CONNOISSEUR”つまり、氏の場合は、詩歌に対するすぐれた〈目利き〉である」と編集後記に紹介されており、安井氏の句集の後記にも刊行協力者として名前が登場しているとのことです。また、安井氏のファンクラブ的な存在である「唐門会」の発起人でもあり、安井俳句の陰に金子氏ありといわれる存在ですから、こうした書誌資料の執筆にはうってつけの方といえるでしょう。
最後にどうしても触れておきたいのは、先程から再三引用している編集後記です。編集後記といっても巻末の2ページ半を占め、その字数も3000字を超えています。書いているのは「未定」編集長の高原耕治氏ですが、氏は「空無霊交の彼方―安井浩司に対する〈極私〉ノート」と題する44ページにもわたる(!)長文の評論を書いています。しかしそれだけの分量の散文を、同人だけならともかく、一般の読者に読ませるには同人誌という形態はいかんせん適しません。一般の読者は、安井俳句のエッセンスだけにしか興味はありません。見ず知らずの論者の思考過程にはさしたる関心がないのです。その点、この編集後記には、「未定」という同人誌の安井浩司に対するスタンスと、この特別号を刊行する意義が、簡潔な表現で的確に書かれています。
思えば、高柳重信亡き後の、この、不毛極まるとしか言いようのない十数年の間、己の背後に、安井浩司という存在の不気味な視線をひそかに浴び続けてきたのは、編集子のみではあるまい。(中略)その、もの言わぬまなざしは、常に、私達、未熟の若輩に、俳句上の厳しい注文を課すかのごとくであった。
俳壇や俳句ジャーナリズムでせわしなく頭や手足を動かしている俳人の諸氏よ、すでに頭が固定観念に覆われ、手足の自由が利かなくなってしまった老大家の諸氏よ、また、一人、孤独に、俳句と己れに戦いを挑んでいる者、そして、未知の読者よ、(中略)未知の俳句に対する激しい渇仰の念を有するほどの者は、きっと、そこから、己れの俳句を志すためのヒントを得るに違いない。
〈編集後記より〉
高原氏をして、これだけ熱い編集後記を書かせたのは、いうまでもなく安井浩司の俳句の力です。文学とは言葉の力であると定義するなら、この文章の力こそが安井俳句の力にほかなりません。そしてそれは「未定」という同人誌の力であり、そうした同人誌を生み出した時代の力でもあります。我々はそうした時代の力を忘れてはいけません。
繰り返しになりますが、この「未定」安井浩司特集号は16年前に発刊された同人誌です。つまり、所有しているごく少数の読者は別として、ほとんどの読者にとって簡単に読めるものではありません。「過去の遺物」といっては同人諸氏に怒られるかもしれませんが、この「未定」特別号のような俳句史上の「事件」は、同人の思い出にしておくにはもったいないことと思い、あえて筆を執った次第です。事件がいつのまにか風化して忘れられてしまうのは世の常で、俳句の世界といい文学の世界といい例外はあり得ません。そうした意味で、師から弟子へと語り継ぐことによって自らの延命を図る徒弟制度は、俳句という文学ジャンルが消滅を免れるための有効な方法だと思います。同人誌には徒弟制度はありませんが、こうした語り継ぎが、俳句そのものの延命はもちろん、俳句を革新する気運の延命としてより重要になってくるはずです。
釈照太
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■