私は今年(二〇一二年)三月に詩集『国書』を刊行した。最初の詩集は一九九八年に出版した『東方の書』で、『国書』連作はその直後から雑誌に発表し始めたのだった。しかし途中で優先的にやるべき仕事ができたこともあって、二冊目の詩集を出すまでに十四年もかかってしまった。詩集など出せばいいというものではないが、それにしても時間がかかりすぎている。愚図なことだ。
ただ最初の一篇を書いた時から『国書』の書物イメージはできあがっていた。それは詩集のタイトルを墨書にすることで、揮毫者は絶対に安井浩司でなければならなかった。実際、『国書』を書き始めてからしばらくして、私は以前から安井さんと親交のあった田沼泰彦に頼んで墨書揮毫の件を打診してもらった。安井さんからは内諾をいただいたが、私は『国書』をほったらかして別の仕事に熱中してしまった。乱暴な言い方だが、できあがりがほぼイメージできる詩集は書いたも同然に思えて、後回しにしてしまったのである。
熱中していた仕事が一段落し、気がつくとずいぶん詩集を出していなくてこれはマズイと感じ始めたのが二年前で、それからペースを上げた。『国書』には二十五篇を収録したが、半分くらいは去年書いた。入稿したのは去年の十二月である。仕事はできる限り完璧に仕上げたいとは思うが、私はあとさき考えずに一冊の本を作り上げるタイプではない。『国書』の書物イメージが最初からあったのは、この詩集で何が表現できるのか、できないのかがわかっていたということでもある。詩集の可能性を把握していたから題字を他者の墨書で飾りたいと思ったのかもしれない。私は詩神などまったく信じない。その降臨をあてにもしていない。私が一番嫌いなのは「詩的」という言葉である。詩は詩であるかそうでないかの二つに一つであり、詩的などという状態はない。
原稿が揃ったと田沼さんに話すと、「それなら一度、秋田にうかがって、安井さんに直接墨書の件をお願いした方がいいよ」というアドバイスをもらった。そこで去年の夏に秋田の安井さん宅を訪問した。安井さんにお会いするのは初めてだった。安井さんは墨書揮毫を快諾してくださった。二階の仕事部屋で話したのだが、壁に数点の墨書軸が掛けられていた。鴨居にピンで留められた、まだ表装されていない墨書もあった。最近、墨書を書くのを楽しんでおられるのだということだった。また四方山話で、以前、墨書展を開催する計画があったが頓挫してしまったのだとうかがった。「生涯に一度でいいから墨書展を開いてみたいなぁ」という安井さんの言葉が印象的だった。
『国書』の墨書題字はそれから一ヶ月ほどして安井さんから届いた。『国書』は「東方」「西方」「中東」「極東」「新大陸」の五章構成で、章タイトルも書いていただいたので合計六点、全十三文字の揮毫である。素晴らしい書だった。墨書を眺めながら、私は『国書』という詩集にこういう強い字が欲しかったのだとつくづく思った。奇妙かもしれないが、私は仕上げたとたんにその仕事に対する興味を失ってしまう。ただ本にする時くらい、できるだけ内容にふさわしい装幀にしてやりたいと思っている。安井さんの墨書を得て『国書』はわたしにとって会心の出来の造本になった。
私は長いあいだ安井浩司に注目していた。この俳人には他の作家にはない何かがあるという確信があった。しかしその核心をなかなか把握できなかった。田沼さんは最晩年の大岡頌司さんと交流があり、大岡さんと安井さんは高校生の時からの親友である。お二人は名前の読みが「こうじ」と同じであるだけでなく、作品にも奇妙な共通点がある。従来の俳句の概念ではまったく読み解けないのだ。「彼らはヌエ派だよな」。うまく読解できない苛立ちもあって、そんな軽口を田沼さんと叩き合ったりした。もしかすると、田沼さんから大岡さんの、剣呑とも韜晦ともつかない複雑な性格を洩れ聞いていたことも影響したかもしれない。ただ私の興味は常に安井浩司にあった。
大岡頌司の最良の俳句作品は、高度な象徴主義(サンボリズム)詩である。ある単語、あるイメージに対する、作家にしか関わりのないほとんど常軌を逸した思い入れが、わずか十七文字の表現なのにも関わらず、作品を極めて複雑なものにしている。また大岡は、自らの創作の源泉であり、苦悩の坩堝でもある過剰なサンボリズムを、もてあましながらも好んで惑溺していた気配がある。大岡ほど愚かとも言えるようなサンボリズムに没入した作家は詩人にもいない。大岡が生み出した最高の俳句は、彼自身にも制御できない魔の瞬間に生まれた奇跡のような作品である。
余談だが、大岡さんの唯一のお弟子の酒巻英一郎さんらの尽力で『大岡頌司全句集』が刊行されることになったとき、私も一冊予約購入した。糖尿病だとは聞いていたが、白内障でほとんど視力を失われていることは知らなかったので、予約用紙にできればサインを入れていただきたいと書いた。送られてきた本にはサインがあった。ただ読めなかった。田沼さんに聞くと「『もちもちかん』だよ。大岡さんの庵号(芭蕉の「幻住庵」のように俳人が自分の住居に付ける雅名)なんだ」という返事が返ってきた。『もちもちかん』という言葉にも、その音の響きにも、大岡にしかわからない大切な祕密がある。象形文字とも、宗教的秘儀文字ともつかない筆跡にも大岡頌司その人が籠められている。大岡さんは全句集が刊行されてから数ヶ月して亡くなられた。
本題に戻ると、難解という意味では共通点があるが、安井俳句は大岡俳句に比べて明らかに方法的で、理知的だった。ようやく安井文学の全体像が見えてきたのは二〇〇八年になってからだった。この年、インタビューを収録した『安井浩司選句集』が刊行され、翌二〇〇九年には評論集『海辺のアポリア』と『増補版 安井浩司全句集』が刊行された。特に『海辺のアポリア』は衝撃的だった。この本は大井恒行、金子弘保、酒巻英一郎、志賀康、筑紫盤井、豊口陽子さんの五名からなる『海辺のアポリア』編集委員会の尽力で刊行されたが、私は彼らに心から感謝してる。この本がなければ、私はいまだに安井文学を読み解くきっかけを得られずにいたかもしれない。
私が読んだ限り、俳人で最も怜悧な頭脳を有していたのは正岡子規と高柳重信である。特に同時代人だったこともあって、重信全集を読み耽っているときには異様な高揚感を覚えた。俳人にしておくのは惜しいと思った。俳句という表現は、重信のようなまれにみる高い知性をすら食い荒らしてしまう残酷なジャンルである。しかし重信はそんなことは十分承知だった。『蕗子』から『山川蝉夫句集』に到る重信文学の軌跡は、乱暴に言えば目から鼻に抜けるような飛びっきりの秀才が、いかに俳句同様に愚かになれるのかを自己に課した苦闘の歴史である。安井もまた重信に匹敵する高い知性の持ち主である。ただその知の質は重信とは大きく異なっていた。
安井があれほど高度で複雑な言語技術を駆使しながら、前衛の代名詞である多行俳句を拒み、一貫して一行俳句を書き続けていることからも予感はあったのだ。ただ安井が本気で俳句文学の原理を探究し、その新たな可能性を正面中央突破で獲得しようとしているとは思っていなかった。そうかもしれないとは感じていたが、半信半疑だった。ただ『海辺のアポリア』を読んでそれは確信に変わった。内容的にも形式的にも安井文学に人の耳目を惹き付けるような派手さはない。しかしそれは原理的に新しい試みなのだ。こんなことは誰一人試みたことがない。やろうとしても誰もが尻込みしてしまうような無謀な試みである。俳壇で安井文学評価が遅れるわけである。恐るべき俳句文学の実践的探究が安井文学で行われている。
ただ私が安井文学理解のきっかけをつかみかけた頃、戸惑ってしまような話を聞いた。安井さんは親しい方に、二〇一〇年刊行の『空なる芭蕉』が最後の句集だとおっしゃっているというのだった。にわかには信じられなかった。「俳句とは安井浩司である」と断言するまでこの芸術に心血を注いだ作家が、まだ書ける状態なのに歩みを止めてしまうことなどあるのだろうかと思った。秋田におじゃましたときに、『空なる芭蕉』が最後の句集なのですかとお聞きしてみたが、そうだともそうではないともお答えにならなかった。ただ、安井さんと話すうちに私は確信を得た。
まず間違いなく『空なる芭蕉』は最後の句集にならないだろう。最後の句集だという言葉は、奥様を亡くされ、また少年時代からの畏友・大岡頌司さんが亡くなられたことによる心痛が生んだものではないかと思う。私がお会いした安井さんは活力に満ちあふれていた。ただ安井さんらしく、それは外にはほんの少ししか表れない静かなものだった。安井さんは墨書を書きながら鋭気を養っておられるようだった。安井さんの長い長い俳句との死闘の季節がようやく終わり、新しい季節が始まろうとしているように感じた。安井さんの頭の中には俳句のことしかなかった。
ただ安井浩司のような優れた作家が、いくら英気を養うためとはいえ、漫然と趣味で書を書いているとは思えなかった。横浜に戻ってからしばらくして、私は電話で安井さんに「金魚屋で墨書展を開いていただけませんか」とお願いした。文学金魚のスタート時点から、私は自由詩部門のアドバイザーとしてこのサイトに関わっていた。また代表の齋藤都さんから、文学金魚のオープニングイベントにふさわしい企画があったらプレゼンテーションするよう求められていた。「やります」。安井さんは即答してくださった。今回のプロジェクトが始まった。
こなすべき仕事もクリアすべき問題も山積みだった。今もまだ全部消化できていない。金魚屋は主要スタッフが全国に分散しているリゾーム状の組織だから(齋藤代表を入れると北半球界か)、スカイプ会議で何度も企画内容とバジェットを検討してからプロジェクトをスタートさせた。しかし始めてみると大幅な予算オーバーだ。先日も齋藤代表に「あなたは作業見積もりも予算見積もりも甘い!」と怒られてしまったが、会社で上司に叱責されるよりずっといい。大好きな仕事をさせてもらっているのだ。齋藤さんに「赤字になったらどうするつもりですか」と聞かれたので、安井さんに了解していただいた上で、一週間ほどあとに、恐る恐る「その分は安井さんの墨書で物納します」とメールした。齋藤さんのメールの返信は「OK」の一言。齋藤さん、あなたはまったく素晴らしい代表です。
ギャラリーで個展を開くのも大切だが、今回のプロジェクトの一番の目的は本を作ることだった。単に作品の写真を並べた図録ではなく、これ一冊読めば、安井浩司を知らない人でも、彼の文学のあらましが理解できるような本を目指した。そのため安井さんにはインタビューのためだけに上京していただいた。田沼さんが作った質問をあらかじめお渡ししてあり、安井さんは原稿用紙丸々一冊使って回答をメモして来られた。これをそのまま掲載しても良いというお話しだったが、是非にとお願いして実際に話していただくことにした。インタビューは午後二時頃に銀座の喫茶ルノアールの会議室で始まり、夕食の場として予約してあった上野の亀屋一睡亭に場所を移して夜の八時頃まで続いた。やってよかったと思う。今回の墨書展の公式図録兼書籍『安井浩司「俳句と書」展』は、私が編集に携わった書物の中で、最高の仕上がりだと胸を張って言える一冊になったと思う。
絵や彫刻にくらべて墨書は確かに地味である。しかし優れた作家の墨書は、知性を含めたその人のすべてがもろに表現された貴重なものなのだ。図録を制作するために、私は酒巻英一郎さんから唐門会所蔵の旧作墨書を百点ほどお借りした。図録で酒巻さんが書いておられるが、唐門会は金子弘保さんを中心に結成された安井さんの純粋読者の会で、安井さんの若い時分からの墨書や生原稿を蒐集している。親しい仲間のために書いたということもあるのだろう、安井さんの書は奔放で生き生きしていた。魅力的な書だった。私は安井さんから送られて来る新作墨書を心待ちにした。ただ届いた新作墨書は、旧作墨書とは明らかに一線を画した仕上がりになっていた。
安井浩司は含羞の人であり、過剰な自信を露わにすることや、自己の作品を売り込むような言説を徹底して嫌う。しかし安井さんは書に自信があると思う。図録を見ていただければわかるが、全紙にあれだけの強さと安定した質で書を書くことは、ほとんどの人には不可能である。安井さんはインタビューで「短冊書くの、嫌なんです。なぜかと言いますと、安井浩司が自分の作品を短冊に書いて、それがマッチしたら、もう安井の俳句も終わりだからです」と語っておられるが、それは本当だと思う。今回の新作墨書でも色紙よりも軸の方が圧倒的にいい。安井さんの書は小さな器には収まらないのだ。絵でも彫刻でも文学作品でもそうだが、ちんまりとした小品を作るよりも大作を手がける方が遙かに難しい。
書を軸に書いた俳人は大勢いるが、たいていはひょろひょろとした魅力のない字である。ほんとうは軸のような大作を書く力がないのだ。書にごまかしがある。しかし安井墨書は違う。どの作品も統一された高い質を保ち、一本芯が通っている。また碧梧桐のように奇をてらうような書き方を一切していない。それは安井さんの俳句に対する姿勢と全く同じだ。書を書く際も、安井さんは正面中央突破の姿勢で臨んでおられると思う。
安井さんはまた、インタビューで「今回、書を書いていて、俳句と書の一致、「俳書一体」という言葉を自分で生み出しましたが、俳書一体という境地はあり得るんじゃないかと思うんです」と語っておられる。これについても確かにそうだと思う。今回の墨書は、安井さんの俳句と同質の「作品」だということだ。書も絵と同じ美術品だから、見る人によって好みは分かれるだろう。しかし私は、旧作よりも今回の新作の方が遙かに優れていると思う。安井さんの書は以前とは明らかに変わった。安井さん自身は今回の墨書を「遺品」と位置付けておられるが、変化の理由はそれだけではあるまい。書を万人の視線の元に開示することが彼の書を変えたのだ。
簡単に言えば、作品として書を世に送り出すという状況が、安井さんの書の品位をさらに一歩前に進めたのだ。その意味で安井浩司は骨の髄まで「作家」である。物を新たに作り出す人である。安井さんの書の変化は私には大きな驚きだった。作家としてなんと業の深い人だろうと思った。作家にとっての理想が、作品を作り上げることで新たな表現領域に到達することであることは言うまでもない。安井浩司はそれができる数少ない作家である。言語同断に作品を書く(作る)ことで前に進み続けているのである。
手放しで安井作品を絶賛しているように読めるだろうが、裏付けもなくそんなことを言っているわけではない。なぜだかわからないが、私は子供の頃から批評意識が強かった。五、六歳の頃、従兄弟たちと一緒にテレビで毎週サイボーグ009のアニメを楽しみに見ていた。しかし駄作だった。「あんまりおもしろくないね」と言う従兄弟に、「九人のサイボーグのキャラクター設定それぞれは魅力的なんだけど、主人公の009の性格が弱いせいだよ」という意味の説明をしていた。このアニメ、惜しいなぁ、もう少し手を入れたら傑作になるのにと思いながらテレビを見続けていた。
お前、ちょっと剣呑な性格だね、と言われてしまうかもしれないが、私は多かれ少なかれ言葉のプロである作家の言葉を頭から真に受けたりしない。言葉のプロである作家は簡単に詭弁家に変貌する。どんな三流作家でもいっぱしのことを書く。しかしたいていの場合、書いていることとやっていることが違う。立派な文学者の心得をとくとくと説きながら、平然と業界を走り回ってインサイダー取引で自己の評価を高めようとしている詩人など掃いて捨てるほどいる。一番やっかいなのは、それを批判すると、「ツルヤマクン、ひどいよ」と悲しそうな顔をする手合いである。そういう感情に絡めた泣きおどしを裏取引と言う。糞でも食らえと思う。現在の文学の衰退は、自分の評価にしか興味のない作家が呆れるほど増えたことにも起因している。文学そのものに真剣に取り組まなければ、創作の場所自体が失われてしまう。
話が脱線してしまったが、私の批評意識は安井さんにも向かっていた。ただ少なくとも文学に関する安井さんの言葉と行動には矛盾がなかった。一分の隙もないほど一貫していた。安井さんのような作家を私は吉岡実と永田耕衣以外に知らない。私は安井さんや吉岡、耕衣の評価はその作品の質に比べて低いと思う。しかし一方で、彼らは多くの同時代作家たちには煙たい存在なのかもしれないのである。作品に自信があるからこそ彼らは悠然としている。もちろん私は彼らの作品が、自由詩や俳句史上で最高の作品だと断言するほどの勇気はもっていない。だが心から尊敬できる詩人たちである。吉岡実の死後、もう彼のような詩人には出会えないと思っていた。しかし安井浩司がいた。安井浩司が同時代人であることは、私にはなにものにも代え難い僥倖である。
耕衣さんで思い出したが、私は一九八七年に、学生時代からの仲間たちと同人誌で永田耕衣特集号を出した。特集刊行の意図をお伝えした時から耕衣さんは大変喜んでくださった。ただ就職したばかりで慣れない仕事に喘ぎながら原稿を書き、大部の特集号を編集するのは難儀だった。当時はワープロもDTPもなく、生原稿をタイプで打ったものを版下にしていた。原稿を書く苦労は同じだが、版下制作には今とは比較にならないほど手がかかった。痺れを切らした耕衣さんに、「君たちは年寄りは気が長いと思っているかもしれないが、逆だ。老い先短いからせっかちなんだ。早く出したまえ」とせっつかれた懐かしい思い出がある。
耕衣さんはたくさん書の作品を残されたが、その市場価はじりじりと上がり続けている。耕衣さんの書は大好きだが、ちょっといい作品だと手が届かなくなり始めている。しかし正直な市場の反応だと思う。安井さんもインタビューで言っておられるが、近代で書を「作品」として書きのこした作家、単体で鑑賞できるレベルの書を書き残した俳人は耕衣さんだけだと思う。
高柳重信の『俳句評論』の同人だったこともあって、私は長い間、安井浩司は重信の弟子だとばかり思っていた。耕衣さんが安井さんの唯一の師だとはっきり認識したのは、恥ずかしながらつい最近のことである。しかしよく考えてみれば、安井さんは確かに耕衣さんのお弟子だ。安井さんの、どっしりとして動かしがたい俳句の骨格は耕衣さん譲りである。耕衣さんの句に「死蛍に照らしをかける蛍かな」があり、安井さんに「死鼠を常(とこ)の真昼へ抛りけり」がある。師弟相聞句だと言っていいのではないかと思う。いくら伝統だと言われても、納得のいかない師弟関係は大嫌いだが、このような形で師弟の間に流れる血脈はとても大切だと思う。
耕衣さんの特集号を出してから四半世紀後に、そのお弟子である安井さんの仕事をまとめる仕事を手伝うことができた。耕衣さんの言葉を借りれば「善縁」である。初めてお会いした時、安井さんは「鶴山さんは、お会いしたらいきなり殴られるんじゃないかと思っていたけど、泰然としておられる」と冗談交じりにおっしゃった。だいじょうぶ、安井さん、私は尊敬できる作家には万感の敬意をもって接します。確信をもって正しい方向を指し示してくださっているという意味で、安井さんは俳句文学における私の師である。貴重で有意義な経験をさせていただいた。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■