連載小説が多い中で、たまたま手にとって楽しく読めるものというのがあまりない気がする。短編も載っているのだが、各著者ごとの短編集か、テーマごとのアンソロジーで読みたい感じだ。
それでも小説宝石を取り上げたいのは、リクエスト・アンソロジーとか、ちょっとした欄の視点に面白味があるところだろう。今回、「14歳の日」と題されたグラビアもいい。
で、「月刊『週刊宝石』!」というコラムがある。なるほど、この雑誌は週刊宝石を母体として、それを月刊にして分厚くして、その紙幅に小説をぶち込んだのだと納得した。だからコラムなどの各欄に、週刊誌ばりの工夫をしている。書き手の作家性にまかせる、ということはしないのだろう。
それで今月の「月刊『週刊宝石』!」では、岩井志麻子が「シマコの「週刊 (!?) 宝石」」で長めのエッセイを書いている。この長い、というところがなんか「文学っぽい」ということになるのだろうか。
この岩井志麻子の「週刊 (!?) 宝石」」では最初、自身の仕事のウェイトが物書きよりもテレビ出演などに多く当てられていて、そのために街中でどうこう、といったことが書かれている。本については「面白くない」と、わざわざ出版社に文句を言う手合いはまずいないが、テレビだと「あいつを出すな!」というクレームがくる、というのは、確かにそうだ。
そこから、やはり怖い話を書く作家であり続けたい、という意思表示からか、伝聞での怖い?ような話に繋がってゆく。北朝鮮でよい大学を出たエリート夫婦だったが、夫の失敗から中国との国境に落ちて食い詰めた。妻はついに身体を売るようになって、韓国からの観光客であったある男との行為が忘れられずに脱北し、いまだに韓国で男を探している。
この話を怖くするのもしないのも語り口で、それによってはマルグリット・デュラスの「ラ・マン」ばりのロマンチックなものにもなり得るだろう。要するに、これを語り合うときの女たちの口調だの、感想だのに、「どこまでいっても人間ってのは…」と嘆息させる醜さが腐臭を放つとき、その怖いもの見たさの「怖さ」が現れる、ということだ。
岩井志麻子のエッセイはネタ勝負という感じで、エッセイとしては上手くはないし、文章で読ませる文学的なものでもない。それで、やはりネタで勝負する「週刊 (!?) 」誌的なものとしてはフィットしている。
同じ欄でもう一つ、にらさわあきこの「婚活難民」は、結婚願望があって恋多きお嬢様がゆき遅れる顛末という、ネタとも言えない、ありふれた話だ。が、ありふれているから読者がいない、ということはない。週刊誌ならば、ありふれた実話にこそ、我が身を重ね合わせる読者からの反響が多いものだ。
ポイントはやはり「実話」だ、ということだ。文芸誌と、本質的な週刊誌の違いはそこだろう。
池田浩
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