今月号の特集は「正岡子規生誕百五十年 和歌革新運動 明治の歌人は何を夢見て何を成したか」です。「正岡子規生誕百五十年」とありますが特集冒頭には子規「根岸短歌会」や与謝野鉄幹新詩社「明星」それに佐佐木信綱「心の華」や高崎正風「御歌所」の流れがどのように現代まで受け継がれたのかがわかりやすく図示されています。少し乱暴ですが子規と鉄幹がいわゆる新派で信綱や正風が旧派になります。ただ旧派といっても杓子定規な守旧派ではなく明治初期の短歌の流れの中で重要な役割を果たしたということです。
当たり前ですが和歌(短歌)は『万葉集』以来千年を超える歴史を持っているわけでそう簡単に骨格は変わりません。明治維新という社会的大変革の影響をもろに受けて歌壇に新派と旧派が生まれたわけですがその総合が明治短歌を作りました。それは情報化社会(インターネット社会)の影響で生活から思考方法まで変わりつつある現代でも同じです。現代人はすべからく現代は特別な時代と思いがちですが構造的には繰り返しです。新派と旧派が入り交じって新しい短歌が生まれる。五七五に季語が俳句王道だと主張する俳壇の旧派と同様に達観的に言えば短歌でも旧派の説く姿に短歌は回帰してゆくはずです。ただ新派が与えた改革が古い文学様式を少しだけ刷新するのです。
明治和歌革新を理論実作の両面で牽引したのは、いうまでもなく与謝野鉄幹と正岡子規である。その一人、正岡子規が新聞「日本」に、明治三十一年二月から三月、十回にわたって連載した「歌よみに与ふる書」は、彼の和歌革新の提唱であると同時に、明治天皇を囲む「歌よみ」たちに対して差しだした宣戦布告の文章でもあることをあらためて確認したい。(中略)
こんな時期に歌を専門とすることが世間的に認証された「歌よみ」とは、パワーアップされた近代天皇制の下に身分を保証された宮内省御歌所の歌人たち以外にはほとんど考えられない。明治天皇の和歌に関する改革は、むろん先述した歌御会始だけにとどまらず、これを仕切る機関として、明治二年に歌道御用(侍従侍所所属)を置き、四年には宮内省に歌道御用掛を置いていた。この歌道御用掛が明治二十一年に宮内省御歌所へと格上げされ、初代所長に旧薩摩藩士高崎正風が任じられる。高崎正風は香川景樹を鼻祖とする桂園派の歌人だった。景樹は『古今和歌集』を尊重、「歌は理るものにあらず、調ぶるものなり」(『東塢遺言抄』)という韻律尊重論を説いた歌人だが、この香川景樹の高弟、八田知紀を高崎正風は師と仰いだ。高崎が歌の典拠とする古典は当然のことながら『古今和歌集』である。
(島田修三「明治天皇、子規、鉄幹」)
明治天皇が和歌を好まれたことはよく知られています。島田さんによると生涯で九万三千余首を詠まれたそうです。明治神宮で御神籤を引くと今も明治天皇御製の和歌が印刷されていますね。それだけ歌の内容も多種多様ということです。宮中内行事だった歌御会始(歌会始)を現在のように国民から歌を募る形にしたのは明治天皇です。また島田さんがお書きになっているように宮内省御歌所を置いて和歌を政府機関の一つに組み込みました。初代所長が旧薩摩藩士・高崎正風であることからわかるように明治初期の藩閥政治が反映された人事です。
島田さんが簡潔に描いた明治初期の和歌を巡る政治状況を前提とすると旧派は権力と何らかのつながりがあり新派は民間文学運動だったと言える面があります。佐佐木信綱は高名な国文学者で歌会撰者でした。しかし少なくとも新詩社設立時点の鉄幹は現実政治に足を踏み入れていません。病者だった子規が政治に積極的に関わることができなかったのは言うまでもありません。子規と鉄幹の新派が短歌をより親しみやすい表現にしたという面はあります。当時も短歌は高尚で取っつきにくいという社会通念があったのです。
子規は日本新聞の在宅記者として亡くなるまで日本新聞に作品を発表し続けましたがそれは社主・陸羯南の深い理解と庇護があったからです。ただ俳句革新運動の際は子規を応援していた羯南は「歌よみに与ふる書」が発表されると連載を止めるよう子規に求めました。その理由は島田さんの文章でわかりますね。和歌は元々貴族文学だったわけですが明治初期にはさらに天皇家に接近しており羯南は不敬を畏れたのです。ただ逆に子規に説得され連載を許しました。反体制・反主流の旗を掲げるなら子規くらいの筋の通し方は必要です。
それはともかく明治の新しい短歌という点では鉄幹「明星」の方がわかりやすい。鉄幹はもちろん晶子にはっきり表れているように明星派は明治維新以降の人間の強い自我意識を短歌で表現しました。明星派からは石川啄木や北原白秋や窪田空穂が現れましたが多かれ少なかれ個の自我意識表現を重視しています。明星派は短歌だけでなく新体詩から自由詩に至る明治の新たな文学形成に大きく寄与しています。
これに対して「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」と激しく旧派を攻撃した子規の革新性は意外にわかりにくい。子規は『万葉集』を称揚して古代的な写生を奨励しましたがそれ自体は短歌文学の過去遺産の一つに過ぎません。俳句革新運動の理論をそのまま短歌に援用したとも言えます。子規というとすぐに〝俳句革新・短歌革新〟がお題目のように唱えられますが没後百五十年経ってもその本質は明瞭になっていない面があります。実際子規の代表的な俳句や短歌作品は〝革新〟とは縁遠いものです。
「歌よみに与ふる書」の当時、彼は短歌は俳句の長いもの、俳句は短歌の短いもの、と見ており、二つの詩形の違いを意識していなかった。だから、きわめて俳句的な短歌を作ったが、翌年になると、詩形の違いに気づき、俳句は空間を、短歌は時間を詠むに適している、と述べている。また、言葉数の多い短歌は、その長さにおいて「調子の美」を感じさせるとも述べた(「歌話」)。(中略)
ちなみに、子規と呼ぶ歌人はいなかった。彼は竹の里人の名で活動した。それも明治三十一年から三十三年の三年間だ。明治三十四年になると、子規は「墨汁一滴」のような短い文章に取り組み、また、水彩絵具による写生画に熱中した。文章家、画家になったと言ってよく、俳句や短歌は気が向いたときに詠んだ。
(坪内稔典「線香会とはがき歌」)
俳人で優れた子規論もある坪内稔典さんの子規文学のレジュメも的確です。子規が短歌革新を行ったのはわずか三年ほどです。俳句革新ですら時間切れの感があるのにたった三年ではっきりとした短歌革新の成果が出るわけがない。ただ子規の俳句は高弟の高濱虚子・河東碧梧桐に引き継がれ短歌は伊藤左千夫・長塚節らが継承してその後の文学に多大な影響を与えました。子規文学は宝の山であったということです。
坪内さんはまた「線香会とはがき歌、この二つは竹の里人が残した私たちへのプレゼントかも」と書いておられますが卓見だと思います。線香会は一本の線香が燃え尽きるまでに多作を競う短歌の練習会のことです。はがき歌は門弟らに要件を伝える際に短歌の形ではがきに書いて出したものです。子規自身が「はがき歌」と呼んだわけですが遊びではありません。実現はしませんでしたが子規ははがき歌を歌集にしたいと書き残しています。俳句の延長上に短歌を捉えていた子規は短時間で歌が人間同士の関係性の中で成立する自我意識表現でもあることに気づいていたわけです。その可能性を門弟らが引き継いだ。
いつまで経っても子規文学の〝革新性〟が明確な焦点を結ばないのは子規が残したテキストを完結したものとみなしその読解によってすべての回答を引き出そうとするからです。また俳句や短歌といったジャンル別に子規文学を読むからでもあります。子規は俳句・短歌だけでなく新体詩や小説の実作者でもありました。マルチジャンル作家だったのです。その短い人生は〝可能性の坩堝〟でした、子規の鋭い直感が親友の夏目漱石や門弟らに引き継がれました。子規文学はいわば子規派として全体を見なければ把握できないのです。
独り居の母の庭には万緑がざわめいておりまだまだ生きよと
実家とは床下にひそむ根のごとき網の目状なるものではないか
似ておれば少し怖れる「根」と「恨」のどちらも心の床下にある
期限付きの命を生きて蟬たちは躊躇わず落つ樹影を打ちて
仰向きて死ぬ蟬多しあおむくは空のまほらに近づくかたち
*
葉擦れして光砕けたり〈白金之独楽〉は回れよ午睡ののちも
夕映えを拒みて波は照り返す「老母」と嘯けば不機嫌な母
海光のきらめき集めし〈雲母集〉はくしゅうの罪のまぶしさせつなさ
極小の美をかなしめる秋は来て独立時計師の耳は尖るや
*
実のむすめなれど少女期のやわらかさわれは知らねば風船、ふうせん
沈黙は卵のように扱うべしわが娘にしてまたよそさまの娘
まなざしの中に確認した恋の発火点、分岐点はどこかに消えた
*
傘を打つ音を聞き分け、これは雨、これはこの世の秋深む音
垂直の意志きりきりと貫きてジャコメッティの彫像は立つ
そうめんの白き線描ゆらゆらと箸に寄せおり自由に老いたし
(松平盟子「ジャコメッティの指跡」より)
今月号掲載の松平盟子さんの「ジャコメッティの指跡」連作はその自在な詠みぶりが魅力的です。こういう短歌を読んでいると文語体と口語体の差異など修辞上の技術的問題に過ぎないことがよくわかります。短歌にとっては「実のむすめなれど少女期のやわらかさわれは知らねば風船、ふうせん」といった表現の方が遙かに大事です。
連作は老いた母が住む実家の描写から始まりますがそれがじょじょに抽象化され外界を取り込んだ写生になってゆきます。いわば作家の内面描写が写生短歌に昇華されてゆくわけです。子規文学にも通じる短歌が辿るべき一つの道筋でしょうね。
高嶋秋穂
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■