毎年とっても楽しみな角川短歌賞発表号です。新人作家はいつだって新たな魅力を持って現れてくるからですがそれだけではありません。簡単に言えば角川短歌が歌壇のセンター雑誌として正常に機能していることがわかるからです。
歌誌だけでなく句誌や小説文芸誌や詩誌を読んでいれば実感できますが文学の世界は停滞気味です。それが端的に現れるのが新人賞です。たとえば短歌とは兄妹姉妹である句誌の新人賞受賞作品は十年一日の如しです。専門俳人は微細な差異を読み解いて評価するわけですが大局的に見ればほとんど変化がない。〝現状のままで良し〟という俳人たちの総意が背景にあるのだと思います。しかし現代社会は恐ろしいほどの勢いで変わっています。
もちろん明治維新という大変革で実質的に漢詩が滅んで小説が大きな変化を余儀なくされたのに短歌・俳句が何事もなかったかのように生き残ったのと同様に現代の高度情報化社会でも短歌・俳句が力強く生き延びてゆくのは間違いありません。それはそれで結構なことで事実でもありましょうが古くは無季無韻から新興俳句や前衛俳句の時代を経た俳句界ではなぜ俳句は何をやっても〝五七五に季語〟に戻ってきてしまうのかを真摯に問わなければもはや先に進めない所にまで来ていると思います。今の俳人はとにかく俳句を書くことに血道を上げていますがいくら書いても的に当たってくれない状態が続いています。俳句という形式文学が何をしても変わらないし変わりようのないものなら的である俳句そのものについて考えなければ活路は拓けないということです。
これに対して俳句はもちろん物語(小説)文学の母体でもある短歌はビビッドに変わり続けています。短歌文学の柔軟性を見れば短歌がすべての日本文学の母体であることがはっきりとわかります。何かの母体であるということは不変ではなく変化を生み出す根源的な力を持っているということです。その意味で歌人は現代文学を大きく変えられる潜在的力を持っています。また短歌の最もわかりやすい変化は口語短歌の大流行だったわけですがこのブームに対する年長歌人やメディアの対応も実にスマートで良識的なものでした。
口語短歌ブームはSNSの普及と密接に関係しています。誰もが自分の意見を発信できるようになったわけですが俳句より十四文字長い短歌は〝わたしはこう思う・こう感じる〟を簡単に表現できる器です。しかし作家がどこかの地点で〝なぜ短歌でなければならないのか〟を把握しなければ一時のハシカのようなもので終わってしまいます。歌壇の重鎮の皆さんは大人ですからイマドキ短歌を詠もうという奇特な若者を大事にします。しかし一方で年長歌人は歌を止めてしまった数え切れないくらいの友を知っています。
年長歌人たちが歌についてもっと勉強せよ私を素直に歌えと勧めるのは反動ではありません。そうしなければ続かないからです。多少目先の利く歌人は最も簡単で単純な〝私性からの解放〟を歌壇で目立つためあるいは新し味を押し出すために強調したりするわけですがこれをやれば俳句に近づき実朝短歌が壁になって現れてくる。あるいは単なる散文の断片を詩だと強弁することになる。私性を仮想敵にするのは要は勉強不足であり表現内容と欲求に乏しい作家が希薄な自己を覆い隠すための武装に過ぎません。言語表現としては前衛的で面白くても〝こりゃ続かないな〟という作品に対する評価が厳しくなるのは当然のことです。
夏のあいだ、たくさんのともだちが私と遊んでくれた。みんなで一軒の家を借りて、一晩で百首作ったり、海へ行ったり、台湾料理を食べたり、缶ビールひとつ持って夜の代々木公園をただ歩いたりした。その間、わたしたちは飽きることなく短歌の話をした。大笑いして顔をしかめて怒って、話せば話すほど足りなくなって、その時間は、すごくまぶしくて温かな雨のようだった。
世界は現象でしかないし、世界にとっての私もまた現象でしかない。あのこうふくの時間も、ひとり、苦しくて部屋にじっとうずくまってばかりいた時間も、記憶や肉体の滅びとともにあとかたもなく消え去ってしまう。けれど私と世界の継ぎ目には歌が在る。生まてから私に降り続いた時間のすべては、ゆっくりと私の体内に結晶して私の歌となり、やがて膨大な〝短歌〟のなかに組み込まれてゆく。それを私は、わたしにゆるされた唯一で最大の祝祭と思う。
(「受賞のことば」睦月都)
腕の傷さらして小径歩むとき傷より深く射せる木漏れ日
木のスプーン銀のスプーンぬぐひをへ四月の午後は裸足でねむる
悲傷なきこの水曜のお終ひにクレジットカードで買ふ魚と薔薇
悲し、とふ言葉がけさはうすあをき魚の骨格となりて漂ふ
婚なさず子なさずをれば一日がシロツメクサのやうな涼しさ
わが飼へる苺ぞろりとくづほれてなすすべもなし春の星夜に
沼ちかく棲まへるわれや病める目にときをり娘の幻覚を見つ
真夜中はまた未生の娘の顔をして煙草吸ふわが背に重たし
娘われ病みて母きみ狂ひたまふ幾年まへの林檎樹の花
そこらぢゆう木香薔薇が咲いてゐる 夜なのに子どもの声がしてゐる
花に雨かすめるやうなしづけさの母と妹 朝のおしゃべり
いもうとの靴借りてゆく晩春のもつたり白き空の街へと
知らない人の子どもの話を注意深く聞くけれどジャスミンが耳にあふれて
この家の重力にいまだ慣れられぬわたしたちが積み上げてゆく靴の箱
桃色の象の寝息のやうな風 夜の緑道を母と歩めば
月は老いて我にしたがふ 百年後同じ帰路をあゆむわれにも
娘とはつねにまぼろし 亡ぼしし夢のことなどまた夢に見つ
もんしろ蝶 光の路地にあらはれてみるみる燃ゆるまひるなるかも
わが生まぬ少女薔薇園を駆けゆけりこの世の薔薇の棘鋭からむに
(「十七月の娘たち」連作より 睦月都)
情報量の少ない新人作家が発表したわずかな作品を読み込まれるのは当然です。睦月都さんの「受賞の言葉」は美しい文章なのですが「ん?」と思わせるところがありますね。みんなで一晩で百首作ったとありますから歌人仲間がいるのでしょう。ただ彼らと過ごした時間が「すごくまぶしくて温かな雨のよう」だったとはどういうことなのか。睦月さんは一九九一年生まれで二十七歳ですから青春期かその名残のある方です。友達も同世代が多くしかも創作者の卵たちだと思われる。その交わりがこんなキレイゴトで収まるのか。
その答えというかヒントは「世界は現象でしかないし、世界にとっての私もまた現象でしかない」「生まれてから私に降り続いた時間のすべては(中略)私の歌となり、やがて膨大な〝短歌〟のなかに組み込まれてゆく。それを私は、わたしにゆるされた唯一で最大の祝祭と思う」といった言葉に表れているでしょうね。簡単に言えば諦念があります。それが意外なほど新鮮に映る瞬間がある。
「知らない人の子どもの話を注意深く聞くけれどジャスミンが耳にあふれて」「もんしろ蝶 光の路地にあらはれてみるみる燃ゆるまひるなるかも」といった歌はいずれも日常をある観念地平に昇華しています。ジャスミンは美しく香りもいい花であるわけでこの歌は俗ではなく雅の言葉を使わなければ説得力がない。「もんしろ蝶」は「みるみる燃ゆる」わけですがそれは「まひる」にも掛かっている。〝なぜ?〟は省略されているので現実事象が燃えるあるいは燃える幻想を見るのが歌の主眼になります。なにかを見切ったのか絶望しているのかわかりませんが〝新諦念派〟のような詠みぶりです。
それは「十七月の娘たち」という表題にも表れています。当然ですが十七月は存在しない。観念です。そして連作後半に表れてくるのは「母」「妹」「娘」という女性たちです。「わが生まぬ少女薔薇園を駆けゆけりこの世の薔薇の棘鋭からむに」に表現されているようにそれは美しい薔薇園であり鋭く肌を傷つける棘の世界でもある。諦念を表現するのはもちろんアリです。ただ日常と観念との往還でその表面をなぞっているのではいずれ限界が来る。女たちの薔薇園が次のアポリアになるかもしれませんね。
東京はエレベーターでも電車でも横目でモノを見る人の街
携帯に斉藤がいて斎藤も齋藤もいる来日六年
油断して症状が悪化してしまうホームシックのような夏風邪
ぼこぼこにされた論文を前にして眠りに落ちる各駅停車
膨らんだ風船抱いて電車にもバスにも乗れぬ私の住む街
韓国と日本の距離が10センチさらに隔たるニュース眺める
言えません 言ってしまえば楽だけど口に出したら本音になるので
オレンジがパープルに染まる瞬間に今日を明日が飲み込み始める
口角を無理矢理あげる母がいる ここはモノクロにじむ病室
東京へまた戻る朝の病室で母と言葉を交わす間が空く
夢は見栄に似ていて見栄は嘘に似る 夢が嘘となる三段論法
日韓の学者になるべくザクザクと音立てながら砂利道を行く
(「膨らんだ風船抱いて」連作より カン・ハンナ)
次席はカン・ハンナさんで韓国人で日本の大学で学問を修めておられるようです。パッと読むと受賞された睦月さんの作品より読者の興味を惹き付けるところがあります。でもよく読むと深みが足りない。日韓の相互理解と不信は短歌でなくても表現できます。良い悪いの問題ではなく韓国人で短歌を読む若い作家には奇貨居くべし的付加価値があります。しかし〝なぜ短歌なのか〟に届かなければ日本人にとっても韓国人にとってもモヤモヤとした作家で終わる可能性がある。短歌は天皇家に直結した文学でもあるのです。当然そこを衝いてくる人だって現れる。学者さんの卵のようなのでそこまで突き詰めればすごい歌人になるでしょうね。
新人賞は文学賞の中で唯一作家が自分の意志で応募して受賞しに行く能動的な賞です。その意味で応募したからには賞を受賞しなければ意味がないと言えます。ここ数年の角川短歌賞受賞者は口語短歌の影響を受けた谷川電話さんと鈴木加成太さんから短歌王道を肉体感覚で知る佐佐木定綱さんとなっています。睦月さんとカン・ハンナさんの作風は谷川・鈴木・佐佐木さんの作風とも違う一種ニュートラルなものです。これまでの流れがリセットされたような感じもします。ちょっと目端の利く人ならこの後の展開を読めるかもしれない。ただ傾向と対策を立てて応募するのは作家の創作寿命を縮めます。絶対にやめた方がいい。賞を目標として受賞で力尽きる作家も多いのです。何をどうしたってなぜ短歌なのかが腑に落ちなければ歌は続かないのです。
高嶋秋穂
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■