青山YURI子さんの連載小説『コラージュの国』(第07回)をアップしましたぁ。『(ナイロビタウン)』への旅の章ですが、この作品の自己言及にもなっています。ナイロビタウンの人たちの『身体的特徴はこれほど狭い土地であるのにそれ以上ないほどばらつきがあり、目つき鼻つき身体つき各自、個性豊かなものだった。(中略)それぞれ異なった容貌を保ちながら、唯一の習慣様式を町人皆で分かち合っている』のです。多様だけど一であり、一でありながら多様であるわけです。
それを表象するのが服です。『彼ら自身は、シンプルな白い一枚布を、体のラインを際立たせながら、結び目に工夫を施しながら、一枚の布の持つ最大限の可能性を探り、数え上げながら身にまとっていた。彼らの愛したのは「可能性」だった。(中略)領土拡大などのアイディアは微塵も持たず、たった一つの土地の可能性、一つの言語の可能性、一種族、一人間に含まれうる限りの可能性。限定された「一つ」のものの持つ無限の可能性を信仰するということ』とあります。青山さんの文学というか、芸術に対する基本コンセプトでもあるでしょうね。
この可能性の追求は、一種の宗教として語られます。水平軸ではなく、いわば垂直軸の可能性の探求に向かう。『外部の人間を彼らの中に足したり掛けたりしていくことは、断固としてなかった。元の〝1〟を失うのを恐れたからだ。可能性が横向きに拡散していくのを防ぐためだ。水平方向に選択肢を拡げてしまえば、それは地球上を一辺倒の膜で覆ってしまう。(中略)すると可能性の質が落ちる。(中略)可能性が、可能性の隙からこぼれ落ちていく。そうなれば、彼らは彼らの神を失ってしまうこととなる。彼らの中から純に湧き出る可能性を信奉していく先に、可能性の神は待ち、奇跡を実行する。それが彼らの宗教だった』とあります。
非常に面白いのですが、非常に難しい試みに取りかかっておられると思います。ただ可能性が服で表象されるのは重要。可能性は手に取り目に見えるものでなければならない。抽象ではなく絵画や文字といったマテリアルでなければならないということ。だから小説が書かれる。一方で『コラージュの国』の可能性はポスト・モダン的なコンバインではない。神的なものを求めて垂直軸に精神が作動する。物と物、異文化の組み合わせで新し味を探すのではなく、いわば無意識領域の深層に下って(上がってと言っても同じ)神々しいまでの新たな表現=モノを存在させようとする。
この試みを成功させるためには思い切った作家精神の飛躍が必要でしょうね。知力だけでなく体力も必要だな。テクニカルに言うと作品の整合性は気にせず書きまくって、そこから完成度を上げてゆくことになると思います。ただ最初の器はある程度大きくなければなりません。極端な話、200~300枚くらいは壊れかかって書いて、そこから最低限の整合性と完成度を求めてゆく。体力がなければ絶対できないでしょうなぁ。
■ 青山YURI子 連載小説『コラージュの国』(第07回)縦書版 ■
■ 青山YURI子 連載小説『コラージュの国』(第07回)横書版 ■
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