アテクシお仕事でけっこう新幹線や飛行機に乗りますの。一人の時は文庫本読んだりしますが、会社の同僚といっしょの時はそうもいきませんわ。現場のビジネスパーソンにとって、文学好きは基本的にはマイナス要素ね。現実遊離してるデキない社員って思われちゃう可能性があるの。文学いっぺんとうの方は納得いかないと思いますが、今は文学どころじゃない時代なのよ。次々に新しい動きがあって、それにアップデートするので手一杯なの。アテクシのような末端でも仮想通貨で大わらわだわ。年を取ると悟ったような智者のフリができる時代は完全に終わったわね。アテクシは小説読んでリフレッシュしてますけど、それは殿方みたいにウダウダ酒を仕事の一部と考えないで時間確保してるからよ。
だから移動の時は航空会社やJRなんかの会報誌をなんとなく読むことが多いわね。そういう雑誌を読んでると、文学というか文筆の世界って、かなり過当競争でお仕事の取り合いになってるのねぇって思うわ。アテクシの若い頃は、会報誌なんかにエッセイを書いてるのは作家や詩人さんがほとんどだったの。でも今はフリーライターとエッセイストの中間くらいの方が多いわね。作家や詩人でも、それなりに名前が知られている人でなきゃ、エッセイの依頼なんかはあんまり来ないんじゃないかしら。それも名前のある人がお書きになるのは巻頭くらいね。巻末近くのエッセイは、たいてい知らないフリーライターがお書きになってるわ。
考えてみればそれって当然の流れよね。村上春樹先生がお書きになっていれば、「おっ」と思って読む人が多いでしょうけど、五年前十年前に芥川賞を受賞なさった先生方の名前って、ほとんど覚えていませんもの。業界有名人じゃなくて、一般社会で知名度が高い作家様しかネームバリューで読ませることはできませんわ。それにフリーライター系のエッセイストさんなら取材絡みでお仕事を依頼できるわけでしょう。お原稿の修正が出ても比較的気楽にお願いできるわね。それにまーはっきり言うと、小説家や詩人のエッセイすべてがフリーライターよりすごく面白いかというと、そうでもありませんわ。
もちろん小説家や詩人様をおとしめているわけではござーませんことよ。小説や詩といった本業と、エッセイはまた別ってことだと思いますの。昔は書き手の数が少なかったので、小説家や詩人にエッセイ仕事が舞い込みましたけど、今みたいに使い勝手のいいフリーライターが増えた時代には、名前がある分、編集部が言いたいことをハッキリ言えない小説家や詩人はあまり使わなくなるわね。
ただこれも言うまでもありませんけど、フリーライター様がものすごく優秀だって言ってるわけでもござーません。フリーライターはクライアントからの依頼があって、必ず対価を得て文章を書くお仕事ですから、ほっといても作品を書く作家とは違う職種ね。名前、つまり個性を前提とした書き手かどうか曖昧なので、少しでも作家意識があるとストレスの溜まるお仕事だと思うわ。五十代くらいになれば、フリーライターじゃなくてエッセイストと自称するようになる気持ちはわかるわ。そうしないのなら、会社で働くのと同様に、淡々と依頼された文章を書く自営業と割り切った方が多分楽ね。
それに本職のエッセイスト様の方が、やっぱりフリーライターより書き手の能力は上だわね。山口瞳先生とか林真理子先生のエッセイは名人芸よ。そういう名前のあるエッセイストはもうどこかのメディアがガッチリ押さえているから、フリーライター様たちが活躍できるとも言えるわ。エッセイの名人は詩人より小説家の方がおおござーますけど、それは散文っていう性格上、当然のことね。ただ小説系の作家様でも、小説とエッセイを両立させておられる方ほとんどいないわね。ネタがかぶっちゃうのよ
小説もエッセイも、作家様が日常生活で体験したり見聞きしたことをお作品に取り入れますわ。だけど仕入れるネタの数には限界があります。一ヶ月に五十のネタを見聞きしても、使えそうなのは半分以下よね。そのうちホントに面白いのは十くらいってのが普通じゃないかしら。その十個のネタを、小説に使うのかエッセイに使うのかで小説家って呼ばれたり、プロエッセイイストと呼ばれたりするようになるんだと思うわ。かぶっちゃうネタの振り分けが職種の違いになっちゃうところがござーますわね。
人形だった。
生きているように見えても、生きてはいない。人形なのだ。
私は、無機というものを、描こうとしていた。命のないもの。そこに死を重ね合わせているのとは少し違うが、言葉を集めて理解し、認識する習慣が、私にはなかった。無機というのも、正しい言葉かどうかは、実はわかってはいない。私は、キャンバスの上で、世界を創るのが仕事だった。言葉は、夾雑物ですらないのだ。
モチーフにした人形は、椅子に置いてある。キャンバスの中の人形と同じ姿だが、こちらは無機である。キャンバスの中に私が描き出した人形は、生きている。話しかけてきそうであり、笑いそうであり、歩きはじめるのではないかと思う時もある。
(北方謙三「声」)
今号にはハードボイルド小説の大家、北方謙三先生が十枚くらいの掌編小説を三篇書いておられます。もちろん巻頭よ。「声」は画家の私が主人公でございます。物語は人形をモデルにした静物画を描いているところから始まります。「言葉を集めて理解し、認識する習慣が、私にはなかった」という形で画家という創作者の特徴をキチンと理解しておられます。またそれは先生が、この小説で言葉で説明し尽くさないと決めておられることも示しています。「無機」である人形から、なにかが「歩きはじめ」ればいいわけです。
駅まで、歩いて五、六分というところである。私の家のゴミ収集所は、百メートルほどのところにあり、私はそこにビニール袋を捨てた。
「行かないでよ」
五、六歩行ったところで、声が聞こえた。そのまま歩き続けるかどうか、私は一瞬迷い、それから足を止めた。過去から聞えた声だというのは、わかっていた。特徴的な掠れ声で、その持主もすぐに思い浮かべることができる。数年前、私は去ろうとしてそんな声をかけられた。その時、私は立ち止まりもしなかった。
「なにか言ったのか?」
私は声に出して言い、五、六歩ひき返して、ゴミ収集所に捨てたビニール袋を覗きこんだ。人形がいるだけである。どこにも命を感じさせない人形は、ただの物として袋の中に収まっている。
(同)
「行かないでよ」という声が聞こえた瞬間が、このお作品のクライマックスね。その言葉で画家が描いた人形が、過去に深い関係にあった女性とつながりがあることがわかります。またすでに別れていて、画家も女も心残りを抱いているのでは、と示唆されます。しかし絵を描き終わった画家は人形を捨てるのですから、未練を断ち切ろうとしています。
どういう女性だったのか、どんな関係だったのかは、画家が言葉の人ではないわけですから描写されない、というより描写する必要がございませんわね。ただ人は愛着のある物を捨てるときに、画家と同じような感慨をふと抱くことがございます。そこから過去を遡れば中・長篇小説に仕立てることもできますが、短編では書き切らない潔さが求められます。ある感情の余韻だけで短い小説を完結させるわけよね。
「声」のような、トリビアルな画家に関する知識と、人間誰しも抱くささやかな感情は、小説にもエッセイにも仕上げることができます。最後は作家の資質や好みの問題になってしまいますが、小説家は小説に、エッセイストはエッセイとして書くわけです。一篇一篇読んでゆけばなんてことはない作品でございます。だけど日頃からネタを集め、求められれば十本でも二十本でも比較的短期間で仕上げる能力を持っている作家様がプロなのよ。ただ同じネタで小説とエッセイ両方は書きにくいわね。一人の作家が同じネタで書くと、やっぱり手触りが同じになっちゃうのよ。
佐藤知恵子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■