「なぜ俳句なのか」――この恐るべき問いかけは、俳句それ自体から発せられた。安井浩司評論集『海辺のアポリア』は、書名として代表させた一篇を巻頭にしながら、俳句からの逆襲で始まっている。一体なぜこのような事態が生じたのか考えてみるほどに無気味で仕方がない。しかしこの難問を俳句側に誘発したのは、他ならぬわれわれ俳人たちの方であった。
安井の論に則って、今ここにもうひとつの問いを置いてみる。それは俳句を志す者にとっては必然の「俳句とは何か」という命題である。俳句を実践してゆく限り、われわれはこの問いを片時も忘れたことがなかったはずだ。なぜなら俳句の歴史においては、まだ誰ひとりとしてこれに正確な回答を与えた者がいないからである。ならばその答えを探るべく、己が全生活を捧げ、つまりは俳句に殉ずる形でひたすら俳句行為に打ち込んできた俳人たちがいてもおかしくはあるまい。現にそんな先人たちがいた。彼らの俳句生活はやがてひとつの詩論にまで昇華され、いつしか俳句を語るときには、その俳人格へも言及することが必要と見なされるようになっていたのである。もちろんそれはそれで間違いではなかった。むしろ、俳句という得体の知れないものに俳句行為者の影を重ねてみることは、俳句を多少なりとも身近にすることができたという意味で、大いに価値はあったのだ。
だが一方で深刻な事態が起こっていた。ここに安井の疑念が膨らむ。「俳句とは何か」と問うことが、果たして俳句の核心に触れることになるのだろうか。思えば誰かがこれを問うたとき、その問いはともすれば質問者の内宇宙に回収されてゆく性質のものではなかっただろうか。つまり彼らは「問うことと答えることの一致点に、俳句とそれに殉ずる己れの魂を契約」しただけではなかったのか。
この観察眼は鋭さゆえの残虐性を持っていた。これまで俳句の本質を突くものと信奉されてきた「俳句とは何か」という命題は、ここに来て俳人の存在根拠を保証するための足場にしか過ぎなかったことが暴露されたからである。われわれは俳句を問う振りをしながら、実際は俳句に捨てられることを極度に恐れていたのである。けれど不幸にもその事実に気付いたときにはもう俳句側からの復讐は用意されていたのだ。今度は俳句側がわれわれを問い糾す番となった。それがあの呪詛にも似た「なぜ俳句なのか」という俳句からの問い返しだったのである。俳句が抱き続けた積年の怨恨を前に、安井の提出した答えはどのようなものであったか。彼は苦々しくもこう語っている。
焦燥とも迷妄ともつかぬ暗がりの中で耐えているにしか過ぎない。それにしても残酷なことである。俳句を書くことの中に、まさに書く営為の中に俳句を疑うことを、あわよくば殺し去ることを見出せというのだ。俳句を疑う行為の中に、どうして俳句形式の恩寵をたのむことが出来よう。
そしてついには「偶然だけ」「偶然と失敗」「偶然と悪意にみちた突然変異種として俳句がそうであり、私自身がそうであることを照応し、願うほかはなかった」などの偶然性を、辛うじてその回答に充てたのであった。つまり安井にしてからが俳句からのあの邪悪なる問いかけに対しては、まったく個人の力ではどうにもならないことを表明していたのである。
ここに俳句と俳人との関係は完全に断たれてしまった。否、もともと俳句なる怪物との繫がりを信じていたわれわれが傲慢だったのだ。しかし安井によって苦々しくも「偶然」のまま保留された俳句と俳人との関係性は、深淵を抱え込みながら並走してゆくより他に途はないのだろうか。答えは簡単に出せそうもない。ただ、もしそうであっても俳句行為の継続が時間経過の意味として僅かにでも前進と呼び得るような余地を残していたとすれば、やはり俳人は俳句を書き継ぐしかあるまい。俳句からの脅かしには一切応じず、ひたすら書き続けることである。それも俳句行為からあらゆる作為を排除して、ただ黙々と俳句を作るのである。この行程には安井の言う通り「何かに希望してもいけないし絶望してもいけない」のである。
誤解なきよう加えておけば、「俳句とは何か」を問うていた頃の俳句行為は自身の内にも俳句の精霊が宿ることを信じて疑わなかった。俳句を作る際にも、既に前提として俳句と俳人は繫がっていたのである。この幻想の一糸を手繰ってゆけることが、俳人が俳句実践者たりうる唯一の根拠であり、その根拠を恃んでいればこそ俳句行為は逆に作為を必要としていたのだ。しかし今われわれができることは、俳句を作る中においても、それが俳句であることの可能性など夢見ることなく、ただ営々とその行為を続けることだ。無我の境地などと言うのではなく、自身の足跡を消し去りながら歩くようにして、俳句行為そのものを、書く行為の内に消滅させなければならない。そしてついに不在の行為者となったとき、あの恐るべき俳句からの問いかけは、対象を見失ってその口を閉ざすに違いない。
表健太郎
(『LOTUS』第16号(2010年4月)より転載)
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■