柘榴種散って四千の蟲となれ 『汝と我』
一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに
四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した。
〈「四千の日と夜」田村隆一〉
詩人は、一語のために、という美しい虚妄の看板をかかげながら、多くの言葉を拉致し消費する。それが生活なのだ。だから詩人にとって言語生活こそ、最も空しい生活として、その空しさを営むことによって己れの生きざまを演出する。
〈「高屋窓秋論への試み」安井浩司〉
前述、冒頭の安井浩司の「四千」と田村隆一の詩の「四千」と、散文の「詩人」の語の言葉の意味をそれぞれ楕円として置くと言葉の端と端が重なって見えてくる。田村隆一が戦後十年の時間と時代状況を、「多次元的空間」(鮎川信夫)の表出形態としての詩を書いたが、安井浩司もまた、一九七〇年代から一九八〇年代の時代状況を凝視しつつ『密母集』以降の俳句状況と己の時間と空間を柘榴種とし、その種が四千時間の時を背負って、四千の蟲となって世に飛び散っていけと深く願いを祈りへと転化させていった。
現代詩と同等の時間と空間が見え、なおも祈りへと転化させる安井浩司の詩質は、衰弱しつつある一九八〇年代の現代詩の状況の一端を俳句形式で引きうけるがごとく、永続的な闘いを自らに課す。広角的な意味性をつければ摂津幸彦、夏石番矢も同じ位置に立つと言えよう。アニミスティックな祈りの位置へ俳句形式を吊す安井と、摂津の不思議な浸透性と、拡大・拡散的な俳句と理論を持つ夏石によって、二十年前より、俳句状況は、私の側から見る一面的な視界においては、少し楽に見透かせるようになったが―。
近頃、安井浩司の俳句と詩論を読んでいると、俳句のほうへ引きずり込まれているのかなと我が身をあぶなっかしく思う。そんな私の批評が、読むものにどれほどの説得力をもつのか、疑問に思うが、阿部鬼九男が、『俳句評論』(S54.9)で批評についてふれた次の一文をたよりに書いていくことを前提とした書き方を行っていきたいと思う。
抽象的に一つだけ言えることは批評が、人間そして世界という分解し得ない全体として、作品(さらには作家)との透徹した理会を求めるとだけは言っておこう。(鬼九男)
瑠璃蝶や階(きざはし)の無き塔がある 『氾人』
安井浩司の引き受けてきた苦悩の問いかけを、作品を読むもの(他者)が、引き受けていくことを礼としたい。これからも引き受けるであろう、苦悩の問いを、返礼として、他者に返す。他者が作者へと返礼し続ける連続性の中に、俳句形式を存続させることが、俳句形式の持つ排他的な安住感の自縛と同意語的に並んでしまう俳句生活から飛翔する手立てではないか。しかし、現実、俳句形式を俳句作者が思考する図は、蛇が自らの尾を飲み込む苦痛の所作と似ている。
叟(おきな)もし向き合えるふたつの空家 『阿父学』
『阿父学』は、一九七四年に刊行されているので、安井浩司三十八才の頃の一句であろう。「叟もし」の「し」は死、「もし」は仮定の語と読める。叟が二人で二つの空家で向き合って住む日常を一方の仮定とし、叟らは死して残る二つの空家となった家としての他方の仮定。生きているからこそ向き合えない無常感なのか、二件の空家のある風景が出す空虚なのか。どちらかではなく、どちらともなのだ。単なる曖昧さからくる二重性ではなく、安井浩司の意志において、十七文字の中の一文字が、一句を構築させる。そのことは安井の詩人としての才能であるわけだが、無常感と空虚感という人間の本質を、一句に同時に表現しえてしまう安井の詩心を、人間的成熟性の表れとして捕らえていきたい。
日本の風土における村社会は現代において、共同体の機能を急速に失いつつ、村社会の監視関係を残している。現代の村社会は、自己の選択を社会の均衡に求め、切り捨てたものとの関わりをさける村八分的な情感に流されている。そしてその村社会の形態は現代社会のあらゆるところを左右する。その日本社会において成熟していくことは、村社会を生きることと対立する。つまり成熟へと踏み出せば、孤立せざるをえない。他者との均衡を棄て、自らの言葉を探す行為は孤立を深める。孤立した安井は言葉を深く問えば問うほどに孤高性への道へと分け入っていったと思われる。
孤高性による他者への異和は、安井自身の青年的心理との行き違いに重なり、次の一句になったのではないか。
花曇る眼球を世へ押し出せど 『汝と我』
とらえどころのない曖昧さばかり残滓となる句である。奇妙な違和感を安井は抱えなければならない。しかし、安井が内に抱えるこの違和感が、彼の句に触感的な暖かさを通していく。
有耶無耶の関ふりむけば汝と我 『汝と我』
「有耶無耶の関」という場の許容区分の不確かさ、「ふりむけば」という日常的懐かしさを誘う語。ふりむくことによって反転する風景。有耶無耶感は人の心を楽にさせる。安井の温かみが私の感覚にしごく自然なものとして触感される句である。振りむけば、安井浩司の姿が表われる程の肉感が感知される。現実の私は、永田耕衣の「旭寿の会」と東京で行われた安井浩司講演会の二度、同席した。隣で安井浩司を見上げていたけれど、一度も言葉を交わすことも出来ず、安井浩司の意識に私の存在はなかったように思えるけれど、それでも、『阿父学』以降、安井の作品は暖かく触感的エロスを感じさせる。
蛇苺車輪は円を残し去る 『氾人』
黄緑の葉の重なりの中に小さく実る赤。蛇苺が車輪の巾に押しつぶされた様子を「残し去る」にのせ、「円」に車輪の大きさと車輪に乗る人の生活までも視ようとする安井。アニミスティックな世界から人間の本質まで融和させ透視する。この句には如実に表現されていないが、安井のこの感性を、俳人は霊的なものという。私はそのことを、安井の成熟性と考えている。人間の本質を見つつ作品を書く精神の高さは高屋窓秋の世を見透す汚れなき高さと深く私の中で結びを作る。その結びは、俳句から遠ざかろうとする私に退路はないのですと語りかけてくる。
俳句からの退路はないのだと考えはじめてから、「俳句」が自然と深く関わる文学であることを実感する。ただ、自然に対する観念的規定は現実、俳人や批評の場において定まらず、互いを硬化させているように見える。そして、定まらずに様々な規定を各々が俳句形式へ持ち込むが、逆にそこに俳句の可能性を見出してゆくべきだとも思える。
自然と定形との関わりを唯一の前提とし、俳句を作る。そのことによって各々が俳句形式を作りあげていく過程に思想が生まれる。私はそんな俳句形式を求めているが、安井浩司は、闘いつつ己れの俳句形式によって思想を作りあげてきたのだと思う。
〝莫大な観念〟を問うことは、近代が俳句形式の袋小路の中で追いつめてきた個我を開放していくことであり、キザに言ってのければ、幽閉された個我を歴史に還元することであろう。
〈「渇仰のはて」安井浩司〉
自然の一部を構成するひと。そのひととしての己れが歴史の複雑性とどう関わっているのか。地理的な枷が歴史の流れにどのように影響してくるのか。地理性の限定に生きざるを得ないひとはどのような限定の中で生きてきたのか。
俳句が自然を関わらせた文学と認める以上、歴史性の中に俳句形式ともども己れを投げ入れ、こんがらがった糸をほぐすように思考せねばと思う。自然は地理性によって、気候が作られ、自然の様子が決定されていくのだから。
『阿父学』が出版された頃もまだ俳句を書いていなかったが、私自身の感性で読めば、意味が言葉から立ち現われる句集だった。それ以後の句集はもっと私を魅きつけた。しかし、『阿父学』以前の句集はそうではなかった。その頃、叛乱する言葉から、私自身の言葉を、まだ一度も現われぬ何かを、さがしていた。近代、現代詩や小説といっしょに、福島泰樹や西東三鬼等の作品を読み、友人達と語っていた。それは短歌や俳句ではなく、作品として読んでいた。詩集『ロートレアモン』〈デュカス〉や、『パリの憂鬱』〈ボードレール〉と同じように読んだ。高柳重信は俳句として読んだが、それでも一句は一編の詩であった。しかし、当時の安井浩司の作品は、俳句そのものであった。俳句を書かざるものには理解の出来ぬ俳句形式のヴェールをかぶった作品としてあった。それは、彼の知性と貴族的踞座が作品を崦っていたからかもしれないと思うが、句集の背だけが書棚でなじみ、年数を重ねていった。形式の恩寵は形式を獲得出来ぬ者には当然何も与えてはくれない。形式を持つ優位性によって俳句に座が出来、座に入れない者を切り落とす。座の内と外の間には、言葉の意味かくしを行う何かが存在する。定形故か。たとえば、ボードレールの定型詩「悪の華」には言葉から意味が立ち現われる。短かさ故か。安西冬衛の一行詩は意味性の深さによって、架空の空間が現実空間となり一つの真実を読む者に知らせる。意味性が出ていては俳句とは言えないと言われる。俳句は批評によって解釈され、解釈が人目にふれて意味が立ち表われるという循環がある。俳壇的に権威のある者の解釈が名句を生み、他の俳人が賛同することによって歴史的名句となったりする。一句が自立しえていないという思いは今も残る。しかしそのことが、俳句を人間的なものにしているとも言える。安井浩司は当時からそのような俳壇的なものから一線を引いていたが、それでも、あまりに俳句的で、安井浩司の言葉から意味が立ち表われなかった。
俳句対俳句の関係で見ている私の、きわめて俳句的な眼差しが、かえって何かを見落していたのかもしれなかった。
〈「高屋窓秋論への試み」安井浩司〉
高屋窓秋論において、窓秋に対する安井自身の自省である前述の言葉を、そのまま、安井浩司への言葉として借りたいと思う。「きわめて俳句的な眼差し」は俳句形式が呼び起こすまなざしで、そのまなざしは俳句の座の内より外には出ない。俳句の座から俳句形式を剥離させる。つまり句会的連座から作者が遠く離れ俳句形式に己の言葉を書きつける。詩心によって本質を読み取ることの出来る俳句が書かれてはじめて俳句を書かざるものにも意味が立ち表われる作品となる。そして、安井浩司の作品が強く私を引きつけ、多くの作品から言葉の意味が立ち表われたのは『密母集』以後である。
はこべらや人は陰門(ひなと)へむかう旅 『密母集』
たましいの春の地勢に友泣いて 『牛尾心抄』
盲女来て野中の厠で瞠(みひら)かん 『霊果』
動物や草木の句に対して、多くの俳人が書いているが、私は安井浩司の視線が人の対象へ向けられている作品によって、安井浩司の言葉の本質的なところに触れることができればと思う。
前述の三句は対象の人を風景の中でくい入るよう見つめる安井の視線がある。対称に近づこうとする安井のやさしさが痛い程伝わる。だが人は俳句形式の枠において対象として浮かび上がる。どんなに近づこうとしても対象に安井の視線は、届かずにいる。
乞食が苜蓿の種を握りおる 『乾坤』
乞食が呉れたる蕎麦のほうろこそ 『氾人』
句集『乾坤』、『氾人』に乞食(こつじき)が書かれる。乞食の句の多さも、それまで書かれてこなかった事を考えると十分考察していかなければならないことだが、中世の歴史まで戻って考えていかなければ結局は見えてこないことなので、次に機会があればその時にしたいと思う。
網野善彦『日本論の視座』によると、乞食などの「異類異形」が聖なるものへと深く結びついていたのは中世初期の頃までのようだ。アニミズムを片すみに押しやり、乞食等の存在を聖へつながらぬ穢れに落としめてきた現代までの歴史を振り返る時、「幽閉された個我を歴史に還元する〈安井浩司〉」為に俳句形式に安井の言葉と思想を融解させたものが乞食の句として書かれたのではないかと今は想像している。
そして、そのことによるのか、それ以前の何かなのか分からぬが、安井の句が対象をとらえる視線が大きく変わった。次の三句は安井の視線の変化を大きく語るものだろう。
乞食女(め)泣く扉に髪がはさまれて 『氾人』
烏瓜垂るゝ田園に乞食あり 『汝と我』
藪手毬そこへ乞(こつ)のゆび二つ 『風餐』
風景の対象としての人が、いままでの俳句的なるものと異なる。視線があまりにも自在なのだ。風景は対象としての人をそれまでの俳句のように同一視せず、風景は対象を包み大気のようになる。ここで永田耕衣の句を一句見てみたい。
椿が先ず乞食を見送る道筋よ 『悪霊』(永田耕衣)
この句は最も俳句的な句として、写生を考える鍵としてきた。耕衣の視点は、椿と乞食、それを配した風景としての道筋を均質に作品にする。が、乞食は風景を通り過ぎてゆく。これは見事な写生だ。現代俳句氏に芭蕉の正統な流れをつぐ俳人として記すことが正当だろう。安井の句は俳句的な写生方法からすると写生が均質ではない。耕衣の乞食を見る対象のまなざしを平面とすると、安井のまなざしは深く対象へ下降していると思えるのだ。安井のまなざしの深さが、耕衣を越えたなどと大それたことを言っているのではない。たとえ無季俳句であろうと、シュールレアリスティックなコラージュとしての俳句であろうと、〈俳句は写生である〉という俳人に抗いようのない均質的な視点に、安井浩司は写生にある歪みを持ちこんだように思う。そのことが、難解となったり、いらだたせたり、「貧しい句」と思わせたりするのだろう。安井浩司以前、俳句は均質的な写生によって作品が作られてきたから、無理もないと思う。
「藪手毬そこへ乞のゆび二つ」『風餐』は、安井浩司の全句集の中で一番好きな句である。読むものの指が乞のゆびとなって手毬へ添える。乞のゆびはやせて細々としている。安井の視線は乞のゆびそのものとなって手毬にふれるのである。たしかに写生された句なのだ。だがやはり、この視線を俳句形式に持ち込んだ者がいるだろうかと考えさせてしまう句である。社会性俳句においても新興俳句においても、どうなのだろうか。どこまでも考えてゆくとなぜか、高屋窓秋と重なってくる。
高屋窓秋における方法とは何だったか、それは高屋窓秋の言葉である、という以外にないことであり、そういうことで満せない混沌としたひろがりに、俳句史を抜け出たもう一つの俳句を予感していくことで十分に過ぎるように思えるのだ。
〈「高屋窓秋論への試み」安井浩司〉
歴史的意味性を持つ叙情的言語を光とし、先鋭的な時代認識を影として俳句を書き上げてしまう窓秋。意識構造のしなやかさを俳句にしてしまう窓秋はまぎれもなく社会性俳句を書く作家だ。そして安井は、耕衣の写生的、アニミスティックな俳句思想と同じ流れを引く作家である。その認識を前提として、なお、安井浩司と窓秋の言葉の私性が同一に見えてくる。前述した安井の言葉は、そのまま、安井浩司論へ書き込むべき言葉だと思う。安井浩司の窓秋への言葉は安井自身へ再び重なる。安井浩司の言葉は俳句史を抜け出たもう一つの俳句へと向かうことを予感させる。高屋窓秋と共に。
花の悲歌つひに国家を奏でをり 『花の悲歌』窓秋
天を曳く綱に宿して瓜ひとつ 『風餐』
この一句。瓜の垂直の距離が安井浩司の十数年の距離と言えよう。その距離を我々はどれ程測れるのか。安井の言葉はあまりに自在だ。風景を平面的な視線ではない不思議な歪みで視る。その不思議さによってレリーフのごとく描くいのち生命へのまなざし。安井の視線は吹く風のごとく自在に対象をとらえる。そう安井浩司の眼球は風であり視線は吹く風なのだ。安井浩司は高屋窓秋を水性の言語で生きたという。私は安井浩司が風の言語を獲得して生きてきたように思うのだ。
俳句形式は、今だに差別的閉鎖性によって言葉を幽閉させそのことを隠したがる。安井浩司の言葉の自在さで、俳句形式に幽閉され、隠された言語が開放されて行くだろう。
安井浩司は、書くべきものは皆書かれてしまったと言う状況においても己の言葉で書きたいと思わせる作家である。
大井ゆみこ
(『未定』第70号・1996年・特別号・特集 安井浩司より転載)
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