■映画的可能性-過去へ■
ただの映画フリークが、俳句についていったいどれほどのことを語れるというのか。ましてや安井浩司という名前すら知らない俳人だ。しかもこの俳人、生れ故郷の秋田にこもり、結社(俳句仲間の集団のことか)にも属さず、孤独のなかで前衛的な俳句作品を驚異的なペースで量産し続けているというではないか。
待てよ。そもそも俳句に前衛なんてあり得るのか。聞くところによると安井氏は70代後半の俳人だという。(失礼なことをいうようだが)後期高齢者でありながら前衛であることが可能なのだろうか。とにかくその程度の認識しか持ち合わせていない私であった。
しかし当サイト編集人の石川さんから手渡された『安井浩司選句集』を眺めるうちに、私のような映画畑で飯を食ってる人間に、なぜ前衛俳人安井浩司の作品を語らせようとするのか、おぼろげながらその意図が分かってきた。つまり安井氏の俳句は、映画的といってもいいくらいの、いや映画そのもののように魅力的だということだ。
私の俳句知識は小学校の国語の授業以上ではない。だが俳句の門外漢とはいえ、日本人である以上俳句について知っていることは少なからずある。そのひとつが「俳句は写生」ということだ。この一点で俳句と映画は、その表現方法上かさなり合ってしかるべきだと思うが、先に安井氏の俳句が映画的だといったのは、目に見えるものを文字に「写す」ことで表現する写生の意味ではない。「写す」なら映画的というよりむしろ写真的ということで、それなら「カシャッと俳句」とかなんとかいう、写真に俳句を取り合わせているのをテレビで見たことがある。しかし安井氏の俳句はどうやら、そうした写真との取り合わせに適しているようには思えない。
安井氏の俳句が映画的なのは、動きのある映像を俳句17文字の中に喚起することにあるといえよう。さらにいえば、そうして喚起した映像に物語性を加えるという要因もたしかにある。とくに最初期の句集に見られる次のような句である。
逃げよ母かの神殿の加留多取り
死者起ちてこそスカートを裂く土筆
旅人の草むら血便に灰かける
怪しい神殿に幽閉された母をカルタ取りの勝負によって救い出そうとする冒険譚や、病んでもなお旅を続けなければならない旅人の過酷な運命譚が、動きのある映像とともに浮かんでくるさまは、映画によって立ち現われる世界に匹敵するといっても過言ではない。もちろん「死者起ちて」とはいってもゾンビ映画を想起する人はいないだろうし、まさか安井氏がジョージ・A・ロメロの〝ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド〟に触発されてこの句を作ったわけでもないだろう。映画的な俳句とは映画をモチーフに作った俳句のことではない。
安井氏の俳句が映画的なのは、言葉が世界を「映す」フィルムとして機能しているという意味だ。映画における「映す」とは、対象となる世界をそのままフィルム上に再現することではない。そこにはフィルムという「場」が、世界の前提としていやがおうにも「ある」からだ。つまり映画とはフィルム上に仮構された現実とは異質の、いわゆる架空の世界である。それは光を通してフィルムからスクリーンに投影される映画によってのみ世界としてたち現れる。映画はいわば視覚的なダイナミズムを獲得した世界のことである。そうした世界と映画との関係をそのまま安井俳句と世界との関係に置き換えることができるといえよう。
石原に産褥の紙を焚きはじむ
ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき
姉とねて峠にふえるにがよもぎ
たぶんに映画を観ているかのように錯覚するこれらの句は、言葉が映像を喚起する機能だけに留まらず、「産褥の紙」とか「みなすすき」とか「にがよもぎ」といった、言葉に備わった音韻によるイメージ喚起力によって成立しているといってもよい。つまり映画がフィルムという物質上に世界を仮構するように、これらの俳句は言葉の物質性によって世界を立ち上げている。そうした物質性こそがこれらの句にダイナミズムというイメージの強さをもたらし、そうして初めてわれわれは、その背後に潜んでいる物語性にまで想像の境界を広げることができるのである。
■映画的可能性-現在へ■
本稿を書くにあたって、開催予定の安井浩司「俳句と書」展に関わっているスタッフから、安井氏の俳句作品に関する様々な情報を仕入れたが、その代表句としては次の一句を上げる人が多かった。そしてその一句は私に少なからぬ驚きをもたらすこととなった。
有耶無耶の関ふりむけば汝と我
驚きのひとつは他でもない。有耶無耶(うやむや)の関が実在するということである。しかも2箇所も。ひとつは日本海に面した国道7号線の山形県と秋田県の県境付近。もうひとつはもっと内陸に入った山形県と宮城県の県境にある笹谷峠付近。しかしいずれにしてもこの関の正確な場所は不明とのこと。まさに有耶無耶なのだ。
でもほんとうに驚いたのは、この俳句がある外国映画とぴったり重なり合うように思えたことだ。それはアンドレイ・タルコフスキー監督が撮ったソ連映画「ストーカー」のことだ。「ストーカー」といっても、今でいう「つきまとい」などの犯罪行為を指すわけではない。公開された1979年には、まだ世の中に「ストーカー犯罪」は認知されてはいなかった。原作は共産圏SFの代表的作家ストルガツキー兄弟の『路傍のピクニック』で、脚本も原作者自らの書下ろしという長編SF映画だ。
映画の冒頭、そのタイトルシーンでこの物語の発端が語られる。
隕石が落ちたのか宇宙人が来たのかわからない。とにかく、ある地域に奇怪な現象が起きた。そこがゾーンだ。軍隊を派遣したが、かれらは全滅してしまった。それ以来、ゾーンは立ち入り禁止になっている。手の打ちようがないんだ・・・ノーベル賞受賞物理学者ウォーレス博士がライ記者に語った言葉より
ゾーンの中には人間のもっとも切実な希望をかなえる「部屋」があると云われていて、そこで望みをかなえようと、禁を犯してまでゾーンに侵入しようとする者が現れる。そんな彼らを「部屋」まで案内するのが「ストーカー」なのだ。
物語は、創作に行き詰った「作家」と、爆弾で部屋の破壊を企てる「教授」、そしてふたりを案内する「ストーカー」の3人だけで進んでいく。ゾーンにはストーカーにしかわからないさまざまなタブーがあり、それらを避けながら目的地をめざしての困難な道行きが続く。3人はついに部屋の入り口に辿り着く。すると教授が爆弾を取り出す。彼は部屋が悪用されることを危惧し、人類救済のためにここを爆破する目的でゾーンに侵入したのだ。ゾーンを心の拠り所にしてきたストーカーは、爆破を思いとどまらせようとして懸命に教授を説得する。
いっぽう失ったインスピレーションを取り戻すためにゾーンに入った作家は、ゾーンを神聖なものと盲信するストーカーに不信感を抱く。そして人類愛を盾に爆破を正当化しようとする教授の言動を一笑に付し、またゾーンを偽善そのものだとなじる。「俺は中に入らんぞ。自分の本性の腐肉など欲しくないし、他人にも見せたくない。俺みたいな男を連れてくるようじゃ、君も人を見る目がないぞ。それに、奇蹟が存在するという証拠があるか。ここで望みが叶えられると誰に聞いた?ここで幸福になった人間を知ってるかね?」
やがて説得されて爆破を諦めた教授が呟く。「私も分らなくなった。ここへ来る意味が・・・」。そうして部屋の入り口の前で、3人はお互いの背中をくっつけるようにして地面に座り込む。この3人を遠巻きにした映像が延々と続いたあとで、唐突にゾーンの場面は終わる。ゾーンから家に戻ったストーカーが、妻に向かって強い口調で訴えるように愚痴をこぼす。
自分を売り込むことしか、奴らは考えてないんだ。考えるのも金づくだ。それで妙な使命感を持ってやがる。あんな浅知恵で何が信じられるもんか?・・・誰も信じようとしない。あの二人だけじゃない。誰を連れて行く?いちばん恐ろしいことは、誰にもあの“部屋”が必要ないことだ。俺の努力は無駄なんだ。
ストーカーのこの最後の台詞は、激情ゆえにやや抽象的だが、だからこそさまざまな象徴に満ちている。たとえばゾーンを信仰や宗教の象徴と捉えれば、神を信じられなくなった現代人の魂の彷徨譚と読み解くこともできよう。あるいはゾーンをかつてのソ連を動かしていた社会主義思想の象徴と捉えれば、国家に対する反社会主義的な批判と読むこともできなくはない。しかし、全編を通じてスクリーンに映し出される静謐な映像は、映像自体の美学を最優先に意図して撮られており、その結果として象徴的な意味を極力排除した映像になっている。
それはあまりに無意味過ぎて、象徴としてのイデオロギーとはまったく無縁だと、いやでも気付かずにはおれない。つまり宗教や国家を描こうとするなら、映像はそこに充填された膨大な意味によって、一段と騒がしく性急なものにならざるを得ないのであり、そうすることで観客に対しより強くそのイデオロギーを教唆することが可能となるのだ。
しかし映像とは別に、物語そのものには『ストーカー』で表現しようとしたタルコフスキー監督のある強いメッセージが仕掛けられている。それは簡単にいえば「私にとって映画とは何か」、さらに「私にとって芸術とは何か」という根源的な問いに他ならない。それは先に引用した、ゾーンから帰ったストーカーが妻に愚痴る台詞によって知ることができよう。個人的な愚痴の体裁をとってはいるが、愚痴であるからこそタルコフスキーの本音を代弁しているともいえるのだ。
つまり「ストーカー」(=タルコフスキー自身)が神聖なものと信じている“ゾーン”(=映画)や “部屋”(=芸術)は、「作家」(=映画への不信)や「教授」(=芸術に対する偽善)によって、いともたやすく穢されると同時に破壊されようとするのだ。だからこそタルコフスキーは、映画によって映画を極私的に突き詰めようとする。「映画とは何か」という問いかけがより切実であるためには、その問いが自分だけに向けられており、自分だけが納得する答えを出す必要があるからだ。そうしたことが『ストーカー』を極私的な映画にしているといえよう。
『ストーカー』は上映時間が2時間半を超える長い映画であるが、それに対して本章の冒頭で提示した安井浩司の一句はほんの数秒で読むことができる。
有耶無耶の関ふりむけば汝と我
永遠へと向かって引き延ばされていく映画の時間と、一瞬にかける俳句の時間との対比。さらに物語として広がり続ける映画の空間と、17文字というミニマムな俳句の空間との対比。この両極端ともいうべき時空がいったいどこで重なり合うというのだろうか。
「有耶無耶の関」が実在するかしないかは別として、関というからには必ず通過しなければならない場所には違いない。俳句にとってそれは、季語や五七五といった俳句特有の約束以外のなにものでもなかろう。しかしそうした約束事を守りさえすれば、上手い下手は別にして、なぜ俳句が俳句らしく出来上がるのかは、おそらく理屈では説明しきれない曖昧模糊とした感覚によって支えられている。
そして曖昧であるからこそ真摯な俳人には常に、そうした俳句の原理に関わる根源的な問いかけこそが必要なのだ。「ふりかえる」という動作は俳句の原理を問うことに他ならない。それでは結びに登場する「汝と我」であるが、俳句の原理を問う行為自体はあくまでも「我」のものであるはずなのに、なぜ「汝と我」なのか。それは単に五七五の語数あわせで使われているわけではないだろう。
思い返すにタルコフスキーは、「ストーカー」の台詞に託した「映画とは何か」という問いを、独白シーンとしてではなく妻に向かって吐き棄てた愚痴として投げかけた。安井浩司もまた「俳句とは何か」という問いかけを、「汝」という他者を立ち合わせたうえで自分に投げかけている。それは極私的な問いには違いないが、一方で問いかけの先に他者を据え置くことで、独りよがりな妄念に陥りがちなその答えを、他者と共有できるメッセージ性を帯びた思想へと転換しているとはいえないだろうか。
安井浩司のこの一句は、俳句原理を根源的に探ろうとする極私的な問いとして読むことが可能で、その点で映画の原理的な価値を捜し求めた『ストーカー』と重なり合う。さらにそうした極私的な問いかけを、他者へのメッセージとしての「思想」にまで高めようとする意図が、安井浩司とタルコフスキーの共通した創作理念である。
■映画的可能性-未来へ■
俳句と映画というジャンルの異なる作品において、いずれのテクストからも作家の「思想」を読み取るまでには、常に作品(テクスト)の後を追いかけることを強いられる。その結果として言葉や映像といったテクスト(作品)は、意味を伴った象徴記号として観客や読者の脳内にインプットされる。しかし象徴はあくまでも象徴にしか過ぎず、材料そのものの力にはとうてい及ばない。インプットが感動を超えることはないのだ。
映画にしろ俳句にしろ、われわれがいの一番に出会うのは、映像そのものの、言葉そのものの美という刺激に他ならないのだ。そうした映像や言葉を刺激として十分に享受し得なければ、われわれに芸術を楽しむことなどあり得ないし、楽しむことがなければ、その後の作品の記憶を反芻することによって、作家のメッセージを理解するまでには至らない。
安井浩司の一句とタルコフスキーの『ストーカー』が、われわれ読者なり観客なりにそろって教えてくれること。それは芸術作品によって現出する世界の時空はさまざまだが、その時空の永遠と一瞬にかかわらず、作品を享受したまさにそのときこそが、芸術の価値を決めるのだということだ。われわれは作品を追いかけるのではなく、作品と同じステップを踏み出すのだ。そうして優れた作品とは、追いかけるべき道を示すのではなく、一緒に踊る相手との次のステップを楽しむもののことだ。
緑川信夫
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■