相変わらずの厚さである。とみに太くなったように感じるのは気のせいだろうか。タウンページをひと回り小ぶりにした、地域の電話帳ぐらいないか。これ以上、太くなると書店のラック型書棚には入らなくなるかもしれない。そういう理由で雑誌のページが決まり、そのためにある連載が打ち切りになる、というのを夢想した。文学的アトモスフィアが打ち砕かれる瞬間である。
映画やドラマの一場面としてもふさわしい。昼間の喫茶店で、作家が告げられる。御作の評判はいい、だけど打ち切りにしたい。面白い作品だから、続きは書き下ろしでがんばってください。もしウチに持ち込まれたら読みますから…。打ち切りの理由は、雑誌が分厚くて書店の棚に入らず、あと7ミリ減らさなくてはならない。そのために16ページの削減を言い渡されたが、ちょうど御作がそのページ数で、と。
馬鹿馬鹿しいコメディだか、パロディだかと思うだろうが、これに近い話はある。さまざまな投資手法を組み合わせたビジネス本が出版を断られた。その手法で利益を上げている著者には理由がわからず、出版社に説明を求めた。その返事は、株式なら株式、為替なら為替とはっきりしてもらわないと、書店の棚のどこに置いてもらったらいいか判断に困る、と営業が言うのだそうだ。
すなわち出版の可否は原稿を読んだ編集者が決めるのではなく、タイトルを見た営業が決めるのであると、ビジネス本の著者は驚いていた。(ちなみにその著者は出版業界とは袂を分かち、自身の事務所でセミナーを販売することにしたそうだ。)これがビジネス本だから、そのようにはっきり説明してくれたのではないか、と思う。同じことは文学作品についても起きているはずだ。
つまり、ある作品について、それがホラーなのか純文学なのかサスペンスなのかファンタジーなのか、はっきりしてもらわないと書店の棚のどこに並べていいのかわからない、という注文だ。そこをもう少しブンガク的に言い換えるのが昨今の編集者の仕事かもしれない。読者をイメージしろとか、狙いを定めろとか、典型作品をなぞれとか。どれももっともで重要なアドバイスで、作品が格段につまらなくなったりする。
それでこの小説すばるの分厚さは、版元が経済的に盤石であるとか、著者に対する囲い込みの結果であるとばかりではないように思われる。それはひとつには、まとまったジャンルとしての小説のあり方を網羅したというより、現代のさまざまななカルチャーに支えられて小説というジャンルがどうやら存在している、という “現在” を率直に表しているのではないか、ということだ。
たとえば、池井戸潤原作のドラマ『陸王』の制作現場を、別の作家である辻村深月が取材するという記事があって、つまりそこでの作家のダブりが無視されているということは、ドラマ制作現場を主体に考えているということだ。ドラマほ登場人物は池井戸潤が生み出したコマに過ぎず、それを演じる俳優に別の作業がアプローチし、取材するということの意味は従来の文脈ではよくわからない。
小説の絶対神話、オリジナリティの王国は、すでに破壊されている、ということではないか。と、つらつら考えるに、この小説すばるの電話帳のごとき厚みは、小説を補完し、それに先立つ世界を前提として全体像を映し出そうという、一種ジャーナル本来のあり方だろうと思えるのだ。小説以外のコンテンツがさほど詰め込まれているというのではないが、とりわけ映像・画像は今、それに先立つ存在なのだろう。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■