【特別展】没後50年記念『川端龍子-超ド級の日本画-』展
於・山種美術館
会期=2017/06/24~08/20
入館料=1200円(一般)
カタログ=1200円
川端龍子は画家として優れていたのはもちろん、絵画に対して独自の考え方を持っていた。東京大田区に龍子記念館があるが、これは元々は喜寿を記念して龍子自身が建てた私設美術館である。龍子死後に大田区に寄贈され、現在では龍子のアトリエと旧宅庭園なども一般公開されている。生前に自分の作品を展示する美術館を建てるなど、自己愛の強い人だった思われるだろう。そういう面もあるだろうが、龍子には絵画はパブリックアートであるべきだという思想があった。ただ龍子の絵画思想はヨーロッパ的なパブリックアートとは質が違う。その根底には力強い現実肯定がある。
『香爐峰』
紙本・彩色・額(六枚一面) 縦二四二・五×横七二六・五センチ 昭和十四年(一九三九年) 大田区立龍子記念館蔵
久しぶりにこの大作を見た。『香爐峰』は縦二・五メートル、横七メートル近い巨大な作品である。龍子は日華事変に従軍画家として同行し、大陸策と名付けた絵の連作を始めた。『香爐峰』はその第三作に当たる。龍子はこの作品について「遙かに蜿々と流れる長江の大景観を取材したのであるが、機を透視的に扱ったのは作者のウイットに依るものである」と書いている。額面通りに言えば、龍子は第二次世界大戦で戦意高揚のために絵を描いた戦争協力者である。また『香爐峰』のような作品が、まだ勝利への期待があった戦争初期に日本各地で公開され、実際に戦意高揚に利用されたのも確かだ。
ただパネル仕立てになっているとはいえ、六曲半双の日本画で中国大陸上空を飛ぶ巨大な戦闘機を画面いっぱいに描いた作品は例がない。また深読みすれば作家は「ウイットに依るもの」と説明しているが、半透明の機体は戦争の勝利など幻だと言っているようにも思われる。しかしこの作品を見た多くの人は、作者に戦争に関する深い思想などない、と感じるのではなかろうか。確かにこの絵の題材は戦争であり、戦争初期の高揚した日本人の精神がバックグラウンドになっている。ただその絵画的表現はあまりにもあっけらかんとしている。
パイロットのモデルは龍子自身だと言われるが、戦闘機に乗って雄大な中国大陸を眼下に見た画家の興奮がストレートに表現されたような作品である。精神の高揚は、戦争よりもにわか戦闘機乗りになった画家の方にあるのではなかろうか。戦争の忌まわしい記憶がつきまとうのは仕方がないが、昭和十四年当時の日本と画家の精神がストレートに表現された絵画として傑作だと言っていい。
『爆弾散華』
紙本・彩色・額(一面) 縦二四九×横一八八センチ 昭和二十年(一九四五年) 大田区立龍子記念館蔵
もう一点龍子の戦争関連の作品を。『爆弾散華』についても龍子は「終戦三日前の空襲に直撃弾を受け、別棟の画室を残して破砕されて了ったが、幸いにして危難を免がれて、今日あることのその記念館でもあらう。そして此一図はその際の生まな体験でもあります」と解題している。この時の爆撃で母屋が倒壊し、使用人二人が亡くなっているので被害は甚大だった。『香爐峰』から六年後の作品だが、龍子もまた戦局の困難さを予感していただろう。しかし『爆弾散華』には敗戦の暗さも悲壮感もない。
『爆弾散華』に描かれているのは食糧難で自宅の庭で栽培していた野菜が、爆風で吹き飛ばされる様子である。また「散華」には「玉砕」の意味もある。『爆弾散華』も縦三メートル、横二メートル近い大作で、終戦から二ヶ月後の青龍展に出品されたので終戦前後から描き始められた作品だろう。爆風で吹き飛ぶ野菜の花や葉は色鮮やかである。爆弾の閃光は金箔で煌びやかに表現されている。動きのある美しい絵である。
『爆弾散華』からは、日本が国力を挙げて挑んだ戦争は敗戦で終わり、といった痛切な感情が読み取れないことはない。しかしその表現もまた驚くほどあっけらかんとしている。龍子に「先生は戦争に加担した画家としての責任があるのではないのですか」と問えば、「お前はなにもわかっておらん。同胞が戦っている時は勝利を願い、敗戦となれば平和を願うのが日本人の当たり前のあり方だ」とでも一喝されそうである。
『鳴門』
絹本・彩色・屏風(六曲一双) 各縦一八五・五×横四二〇センチ 昭和四年(一九二九年) 山種美術館蔵
川端龍子は明治十八年(一八八五年)に和歌山市で生まれ、昭和四十一年(一九六六年)に満八十一歳で没した。生まれは和歌山だが東京育ちで、最初は黒田清輝の白馬会絵画研究所や太平洋画会研究所といった私設学校で洋画を学んだ。大正二年(一九一三年)、二十八歳の時に洋画を極めるために渡米したが、この留学が洋画から日本画に転向するきっかけになった。帰国後二年目の大正四年(一九一五年)に、早くも横山大観らが主宰する院展(再興日本美術院展)に初入選しているのがいかにも龍子らしい。ただ龍子の日本画転向の決意は院展入選で満たされるものではなかった。
龍子は大観の推薦などで名誉ある日本美術院同人となるが、昭和三年(一九二八年)に同人を辞して自らの絵画集団「青龍社」を設立した。『鳴門』は第一回青龍展に出品された作品である。この作品も縦二メートル、横八メートル強の大作、というよりとてつもなく巨大な作品だ。龍子は初回青龍展のためにこの絵を描き、この作品に会設立の意図を込めた。鳴門の渦潮は実見ではなく空想のものだ。激しい波しぶきと絵の大きさそのものが龍子の絵画思想を表す。
龍子は大正十年(一九二一年)の院展に『火生』を出品したが、その破格の大きさや動きのあるタッチから〝これは展覧会のための会場芸術だ〟という批判を受けた。ただ床の間にひっそりと掛けられ鑑賞される日本画からの脱却が龍子の本望だった。批判を逆手に取って青龍社の主張を「会場芸術」と称するようになる。龍子はアメリカ留学中に日本人の描く洋画の評価の低さにショックを受けたが、ボストン美術館で見た『平治物語絵巻』に感銘を受けて洋画家から日本画家へ転向した。その華麗さと長大な時空間に魅せられたのだろう。日本画への転向は洋画からの逃避ではなかったということだ。
日本画は軸や屏風、襖絵などの装飾絵画として発達してきた。寺社や茶室などの装飾絵画であり、建築物全体の一部として調和を保つことが求められてきたのだ。しかし龍子は壁に一枚だけ掛けられ、人々の視線を釘付けにするような日本画を模索した。鮮やかな色彩、巨大な画面、いつまでも見飽きない動きのある画題はそのために龍子が生み出した画法である。
『金閣炎上』
紙本・彩色・軸(一幅) 縦一四二×横二三九センチ 昭和二十五年(一九五〇年) 東京国立近代美術館蔵
昭和二十五年(一九五〇年)七月二日に金閣寺が放火で焼失し、龍子は現地取材をした上で、わずか二ヶ月後の青龍展に『金閣炎上』を出品した。軸だがこの作品も巨大である。龍子は若い頃に徳富蘇峰主幹で、高濱虚子が文芸欄を担当する「國民新聞」の挿絵画家として働いた。そこでジャーナリスティックなセンスを磨いたのである。また時事性のある絵画は青龍社「会場芸術」の重要な主張の一つだった。
龍子は画塾向け機関誌「円光」に「何時誰が描くにしても鯉は鯉であり、草は草であるにしても、そこに今日の自分としての時代に生きた表われがなくては成りません」と書いている。花鳥風月的な画題に偏りがちな日本画の世界で、時事性を重視したのである。それが『香爐峰』や『爆弾散華』、『金閣炎上』などの作品になったといえる。ただ龍子作品には、時事性を超える深い精神性は感じ取れない。むしろ〝深み〟など吹き飛ばしてしまうかのような、圧倒的な大画面による表層絵画が龍子作品の真骨頂である。
『花の袖』
絹本・彩色・軸(一幅) 縦一四六×横七八センチ 昭和十一年(一九三六年) 山種美術館蔵
『花の袖』は龍子の日本画家としての資質が遺憾なく発揮された作品である。第六回龍子個展に出品されたが、目録で友人の勧めで古典的な花を描いた、この作品には「本当の自分なるものの表現」がこめられていると述べている。自宅庭に咲いていた一八という花を忠実に写生して描いたようだ。特に色彩の美しさを意識した作品だという。
作家には抜きがたく資質というものがある。自己の資質を的確に把握し、それにふさわしい表現媒体を選んだ作家が優れた作品を残す。近代以降の洋画家は、写実よりも画家の強い個性で事物の本質を表現するのが基本だった。しかし龍子は写生に基づく的確な形、鮮やかな色彩で作品を仕上げるのが愉楽だった。幻想風の作品はあるが、完全な抽象作品はない。初期の洋画作品を見ても、龍子の資質が日本画にあるのは明かである。
ただ龍子の苛烈な性格は従来の日本画の規範をはみ出していた。洋画に比肩できるような一作で完結した絵画、同時代を的確に捉えた画題を求めた。それはまた近代の日本画に必要な要素だった。少し時代は下るが、東山魁夷は洗練の極みと言っていい日本画を描いた。しかし彼の絵には同時代性、つまり〝現代〟が希薄である。いつの時代に描かれてもかまわないような美しい作品である。龍子はそのような日本画の無時代性を嫌った。日本画ならではの審美性を保持しながら、作家の強い個性と同時代性を表現しようとしたのである。
『草の実』
絹本・彩色・屏風(六曲一双) 各縦一七七・五×横三八六・三センチ 昭和六年(一九三一年) 大田区立龍子記念館蔵
『草の実』も巨大な作品である。秋の草花を紺色の絹地に金などを豪華に使って描いている。平安時代には紺紙金泥経が盛んに作られたが、それを彷彿とさせるような作品である。実際龍子は熱心な仏教徒で自宅に持仏堂を建設し、重要文化財に指定された毘沙門天立像などを安置して熱心に拝んでいた。ただこの作品に仏教的な深い精神性が表現されているのかと言えば、やはり希薄だと思う。龍子作品はドカンとした大作で画題もわかりやすいが、独特の鑑賞の難しさがある。
龍子の作品を見れば、彼が向こうっ気の強い人だったことがひしひしと伝わってくる。独自の画風を打ち立て、青龍社という一家を為さねば気が済まないような人だった。ただ彼の精神は絵の深みへは向かわない。ある社会的事件、ある画題を思いつくと、それに向けて一気に精神が盛り上がってゆく。事件であれ事物であれ一瞬の高みを見極め、それを的確に絵画に仕上げる。その意味で彼は生粋の画家だった。絵が完成すると振り返ることなく、次の画題を求めてゆく。
龍子は「國民新聞」時代からの縁で虚子「ホトトギス」の同人だった。また異母弟の川端茅舎は「ホトトギス」を代表する俳人となった。龍子の中には独立不羈の精神、俳句文学に代表される一瞬の現実を切り取る力、それに仏教的心性が混交しながら内在している。「青龍展なる固有名詞は龍子が墓の中へ持って往く」と言明して、龍子死後すぐに青龍社は解散した。親分肌で狷介で、最後は恬淡とした個人主義者であった。魅力的な画家である。
鶴山裕司
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