『ボストン美術館の至宝』展 東西の名品、珠玉のコレクション
於・東京都美術館
会期=2017/07/20~10/09
入館料=1600円(一般)
カタログ=1900円
前回東京都美術館で開かれた『ブリューゲル『バベルの塔』展』が、ブリューゲル展と銘打ちながら油絵はブリューゲル(父)一点のみだったので、ん~今回はどうかなぁとあまり期待しないで見に行った。都内には実質的に東京都が運営している美術館がいくつかあり、東京都美術館と江戸東京博物館がその代表である。ちょっと言いにくいが、どちらの美術館も美術ポピュリズムの姿勢が垣間見えたりする。
去年だったか東京都美術館で伊藤若冲展が開かれて、記録的な観客動員数となった。若冲作品をまとめて見られる絶好の機会ではあったが、展覧会の意図は若冲人気が高まっているからという域を出ていなかったと思う。若冲さんにおんぶに抱っこだったわけだ。江戸東京博物館も同様で、毎年NHKの大河ドラマと連動した展覧会を開いて善男善女を集めている。何回か見に行ったが美術展としては無理があるなぁと感じてしまった。人々の耳目を驚かす展覧会を企画すればそりゃぁ観客は集まるだろうが、美術館の役割とはちょっとズレているような気がする。大河ドラマは多かれ少なかれフィクションである。それに合わせて歴史的遺物を集めても矛盾が出る。
人間の営みの優劣(あるいは勢い)を決めるのは、ほんの少しの情熱の強さだ。美術展も同じで企画者の〝この作家や作品を広く世の中に紹介したい〟というパッションは、展覧会を見れば自ずと伝わってくる。しかし東京都の美術館ではそれがあまり感じられない。どうも収益が上がる企画を探しているような気配がある。もちろんどんな場合でも採算は重要だ。だけどそんなことばかりしていると美術を見る目が曇り、企画もいずれ頭打ちになってしまうのではなかろうか。
で、今回の『ボストン美術館の至宝』展だが、内容は非常に良かった。ただそれはボストン美術館の企画力に多くを負っていたのではなかろうか。ボストン美術館の日本美術コレクションが、欧米では世界最高のなのは周知の通りである。そのため江戸東京博物館などでも浮世絵の里帰り展などが何度も開催されている。ただ今回の展覧会はちょっと毛色が違った。小規模でもボストン美術館の全容を日本の閲覧者に紹介したいというボストン側の熱意が感じられた。ボストン美術館は奥が深いのである。
曾我蕭白 風仙図屏風
宝暦十四年/明和元年(一七六四年)頃 六曲一双 紙本墨画 縦一五五・八×横三六四センチ フェノロサ=ウェルド・コレクション(一九一一年)
前にも里帰りしていたが、曾我蕭白の『風仙図屏風』が展示されていた。蕭白代表作である。東京大学から東京美術学校の教授を歴任し、岡倉天心とともに明治の日本近代絵画に多大な貢献をしたアーネスト・フェノロサのコレクションである。フェノロサ・コレクションを購入したチャールズ・ウェルドによってボストン美術館に寄贈された。東京都美術館の『ボストン』展ポスターは例によって真ん中にどーんとゴッホ作品二点が印刷されているが、そろそろ印象派に頼り切るのはやめた方がよろし。
フェノロサは日本人がいわゆる洋画を描くことに懐疑的で、伝統的な日本画を好んだ。フェノロサと同じ考えだった天心が西洋絵画科の設置に消極的だったことが、実質的な天心追放である美校騒動(明治三十一年[一八九八年])の一因となった。ただフェノロサ・コレクションを見ると、やはり彼が欧米的な視線で日本美術を選んでいたことがわかる。その代表格が蕭白である。
蕭白は伊藤若冲と長沢蘆雪と並んで〝奇想の画家〟と呼ばれるが、作品を見ればわかるように、その特徴は封建時代の人としては例外的な強い自我意識にある。『風仙図屏風』はその典型で、黒い渦巻きとして表現された暴風と剣一本で戦う男が描かれている。若冲や芦雪には感じられない荒々しさ、不安すら感じさせるような剣呑さは蕭白ならではだ。好悪がはっきり分かれる絵師だろう。
この絵師は幕末京都画壇にあって、従来の日本画の伝統も、封建的身分制度(精神的枠組み)も少しだけ超脱しようとしていた。そういった欧米的とも言える強い自我意識をフェノロサらは見逃さず、的確に読み取っていた。蕭白は現代に生きていたら絵師ではなくアニメーターなどになっていたかもしれない。
喜多川歌麿 三味線を弾く美人図
文化元年~三年年(一八〇四~六年)頃 一幅 絹本着色 縦四一・五×横八三センチ フェノロサ=ウェルド・コレクション(一九一一年)
その逆に、フェノロサは極度に形式化され洗練された江戸絵画も収集した。歌麿の美人絵などがそれである。『三味線を弾く美人図』は絹本色絵の豪華な軸で左側に狂歌が書かれている。幕末に狂歌が大流行したのは周知の通りだが、歌麿もまた版元・蔦屋重三郎らの吉原狂歌連の一人だった。狂歌の作者は紺屋安染、通用亭などで吉原狂歌連ではないが、狂歌好きとして知られた歌麿に絵を描かせたのだろう。お上を憚ったのか、蔦屋は限定本の錦絵狂歌本も秘かに出版している。老中・松平定信により手鎖五十日の処罰を受ける素地はあったわけだ。『三味線を弾く美人図』はそういった板本の元版とでも言うべき作品である。
江戸期以前の日本画理解は、基本的にはフェノロサらが示したいわゆる近代的自我意識と、伝統的洗練美を中心に今でも構成されている。近代的自我意識作家としては蕭白や葛飾北斎がおり、伝統的洗練美を体現する作家は歌麿や広重、与謝蕪村など枚挙に暇がない。ただその一方で、幕末浮世絵の地下水流とでも呼ぶべき退廃を一身に担ったような渓斎英泉らの評価が遅れている。浮世絵は芸術のための芸術であるファインアートではなかったことを、どこかで日本人は再認識して、評価軸を微修正しなければならないでしょうね。
ツタンカーメン王頭部
エジプト、新王国時代、第18王朝、ツタンカーメン王の治世、前一三三六~一三二七年 砂岩 高三〇・五×幅二六・七×奥行二二・二センチ メアリー・S・エイムズ基金によりボストン美術館が購入(一九一一年)
ここからはボストン美術館ならではの欧米美術コレクションである。ボストンはイギリスから来た最初期の清教徒らによって作られた町である。またアメリカ独立戦争が一七七三年(安永二年)のボストン茶会事件から始まったのも周知の通りである。アメリカ独立派がボストン港に停泊していたイギリス船の積み荷の紅茶を海に投げ込んだのである。アメリカのアッパーたちは、それまでイギリスに倣って紅茶をたしなんでいた。その習慣を捨てたのだ。アメリカが今ではコーヒー大国であるのは単なる嗜好の問題ではない。アメリカのテレビドラマを見ていても、嫌味なイギリス人には紅茶を飲ませるのがお約束である。
独立以来、ヨーロッパに対して不干渉主義(モンロー主義)を採っていたアメリカは、十九世紀末から二十世紀初頭になると閉じた巨大な島国として空前の繁栄を迎えた。フィッツジェラルドのフラッパーの時代だ。一九〇五年(明治三十八年)にはボストン美術館の協力を得たハーバード大学のジョージ・ライスナー博士が、エジプトと北スーダンで発掘調査を行った。現在エジプト政府により、過去に世界各地で簒奪された美術品の返還交渉が為されているが、ライスナー博士の調査ではエジプト政府が発掘品の半分の所有を認めたので、四万点を超えるボストン所蔵品は返還の怖れがない。
ボストンは港町であり、エジプト美術の優品に限らず世界中から様々な文物が到来していた。二十世紀初頭には人間のルーツを探求する人類学が盛んだったこともあり、アイヌなどの少数民族の遺品などもその中に含まれる。モースが日本で蒐集した民具などを含め、ボストン美術館にはそういった収蔵品もある。アメリカは第二次世界大戦までは世界の中心だったヨーロッパを対岸に見ながら、文物の蒐集によって独自の文化をじょじょに育んでいった。
クロード・モネ くぼ地のヒナゲシ畑、ジヴェルニー近郊
一八八五年 油彩、カンヴァス 縦六五・一×横八一・三センチ ジュリアーナ・チーニー・エドワーズ・コレクション(一九二五年)
アメリカの絵画愛好者たちも印象派の絵を好んだ。モネの『くぼ地のヒナゲシ畑、ジヴェルニー近郊』は傑作で、ジュリアーナ・エドワーズの優れた目の力がよくわかる。また二十世紀初頭には大富豪と呼べる人々が生まれていた。その財力が印象派の優れた絵画の蒐集を可能にした。
一八七〇年(明治三年)に設立されたボストン美術館はアメリカで最も古い美術館である。また政府などの援助を受けず、民間の篤志家からの作品寄贈や資金援助で運営されてきたアメリカらしい美術館である。アメリカならではの独立不羈の精神で設立・運営されてきた美術館というわけで、こういったコレクションを目にした人の中からアメリカのアーチストが育っていった。ただそれには時間がかかった。
チャールズ・シーラー 白い納屋、壁、ペンシルヴェニア州バックス郡
一九一五年 写真、ゼラチン・シルバー・プリント 縦四五・五×横五七・五センチ レーン・コレクション
十九世紀末から二十世紀初頭のアメリカ絵画は肖像画と風景画がほとんどで、それもヨーロッパ写実主義を受け継いだアカデミックな作風だった。しかし一九一〇年代頃からじょじょに変わってくる。その一つの動向にアメリカにおける写真美術がある。写真はもちろん十九世紀前半にヨーロッパで発明されたもので、十九世紀後半にはかなり普及して中流家庭の人々が家族記念写真などを撮るようになった。ただ写真がアートにまで高められたのはアメリカにおいてである。
アメリカの建国精神はフロンティア・スピリッツであり、芸術に限らず新たな発見や発明に果敢に挑戦する伝統が今に至るまで根強くある。写真アートもその一つである。アメリカの写真にはアメリカン・スピリッツの〝真が写っている〟。
シーラーの写真はタイトル通り、ペンシルヴェニア州の田舎町にある白い納屋の壁を写したものだ。この殺伐とした風景写真はアメリカならではだ。アメリカは世界で一番裕福な国であり、大量消費社会でもある。しかしその煌びやかで豪華な表面の裏に、シーラーが捉えたような虚無的な残酷さを秘めている。この写真伝統はロバート・フランクの写真集『アメリカ人』で一つの頂点を迎える。またこの冷たい現実認識は正反対とも呼べるような痛切で甘やかな抒情を生んでゆく。
ジョージア・オキーフ グレーの上のカラー・リリー
一九二八年 油彩、カンヴァス 縦八一×横四三・二センチ ウイリアム・H・レーン財団の寄贈(一九九〇年)
オキーフまで来ると、最もアメリカらしいアメリカン・アートまでもう一歩である。オキーフはニューヨークで画業を開始して高い評価を得たが、晩年は荒野のど真ん中のニューメキシコ州に移住して絵を描き続けた。カラカラに乾いた美しくも残酷な土地である。しかし彼女の描く花はみずみずしい。『グレーの上のカラー・リリー』はオキーフらしい作品で、具象画だが極度に抽象化された百合が描かれている。オキーフ作品に感じ取れる抒情は、その背後に残酷なニューメキシコの砂漠を秘めている。オキーフの夫はアメリカのフォト・アートの先駆者であるアルフレッド・スティーグリッツだった。
ジョン・シンガー・サージェント フィクス・ウォレン夫人(グレッチェン・オズグッド)と娘レイチェル
一九〇三年 油彩、カンヴァス 縦一五二・四×横一〇二・六センチ レイチェル・ウォレン・バートン夫人の寄贈、及びエミリー・L・エインズリー基金による購入(一九六四年)
日本ではあまり見ることのできない画家の作品も展示されていた。ジョン・サージェントは十九世紀末から二十世紀初頭のアメリカの売れっ子肖像画家だった。ヨーロッパのサロンで画才を認められ、アメリカの富裕層のために数多くの肖像画を描いた。『フィクス・ウォレン夫人(グレッチェン・オズグッド)と娘レイチェル』は、その華やかさという点で彼の代表作の一つだろう。
肖像画が描かれた一九〇三年当時、ウォレン夫人と娘のレイチェルはイギリス人よりもイギリス人らしい生活様式で暮らしていた。彼女たちの背後には十七世紀の天使の燭台や十五世紀の聖母子像が描かれている。いずれもヨーロッパからもたらされた高価な骨董品だ。アメリカの特権的富裕層は、現代に片足を突っ込んだ二十世紀初頭でもイギリス風の暮らしをしていた。
ここから半世紀もしないうちに、アメリカはヤンキー的とも言える独自の道を歩み始める。イギリス生まれのアメリカ女優、オードリー・ヘプバーンがトルーマン・カポーティの傑作『ティファニーで朝食を』で野性的だが洗練された主人公ホリー・ゴライトリーを演じ、ロサンゼルスで私生児として生まれたマリリン・モンローがアメリカのセックスシンボルになってゆく。二人はほぼ同い年だ。アメリカ人はヘプバーンの洗練されたヨーロッパ的容姿を愛し、マリリンの露骨なセックスアピールを批判しながら愛した。
アメリカのアーチストたちは、矛盾しているともアメリカにとっては自然だとも言える大衆の好みをビビッドに捉え、作品として表現し始める。アンディ・ウォーホールはアートとは無縁と考えられていた大衆文化を作品に取り入れ、アートとコマーシャル文化の垣根をなし崩しにしていった。ウォーホール作品も、当然今回の展覧会で展示されていた。その気になればアメリカ建国から現在に至る二五〇年の精神史を辿れる良い展覧会でした。
鶴山裕司
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