文学作品を読んで感動することは誰でもありますがどこに感動するかは人それぞれです。作家の個性があるように読者の個性もあるわけでそう簡単にポイントを絞れません。ただそのために古典文学というカテゴリーがあるのでしょうね。古典的名作はいわば昔から続いている感動の平均値だと言えます。マイナー作家をひたすら愛する読者もいますが長い間の読者の感動平均値が古典文学を生んでいると言えます。
じゃあ古典文学はどのくらいの過去から古典と呼んでいいのでしょうか。これはけっこうな難問です。いわゆる〝生きた短歌文学〟に興味のない読者は短歌は鎌倉初期で終わりと言うでしょうね。歌人からお叱りを受けるでしょうがそれも一つの見識です。源実朝あたりが王朝古典短歌の最後であるのは確かなのですから。でももっと視野を広げると近現代も入ってきます。ただ斎藤茂吉あたりが古典文学の下限なのか塚本邦雄や岡井隆なのか俵万智や穂村弘さんらまで入れるのかは様々です。百年や二百年ではまだ感動の平均値をしっかり集計できないのです。考えてみれば気の長い話です。
近代短歌のもっとも豊かな遺産は、或る意味で実にもう些末きわまりない個人的感情や気分が歌の素材になり得ることを実作をもって示した点にある。働いても働いても生活が豊かにならずに滅入る男が、じっと掌を見つめた――その瞬間を余韻、余剰としてよぎる微かなこころの働きが読者のこころをとらえる。こういう表現と享受の間の文学的回路をひらいたのが近代短歌だといっていいい。
(島田修三「微かな揺らぎ、翳り」)
近代短歌の遺産が「実にもう些末きわまりない個人的感情や気分が歌の素材になり得ることを実作をもって示した点にある」という島田さんの論はその通りだと思います。ただ「微かなこころの働きが読者のこころをとらえる」という時の「読者」がどんな人たちなのかはやはり気になるところです。感動の平均値はなかなか採りにくいのです。
島田さんは日常短歌の感動を理論化した歌人として窪田空穂をあげておられます。「空穂は「微かなひびき、微かなゆらぎといった風な一呼吸」を歌のモチーフに据えようとした」と書いておられる。空穂に限らず子規の万葉ぶりから写生短歌に進んだ茂吉以来の一つの短歌創作手法でしょうね。ただこういった「些末きわまりない個人的感情や気分」に感動する――共感するの方が正確かもしれません――のは歌人がほとんどではないでしょうか。
おおむね大正時代以降の短歌がメディアの発達とともにあったのは事実です。歌を発表する場所が増え歌人は若書きから晩年作まで作品集にまとめることができるようになりました。当然のことですが江戸期以前の作家のように生涯一冊家集があれば十分という創作・出版環境は変わりました。特にプロとして結社を持つ歌人は結社誌でお手本を見せるという意味でも次々に作品を発表していかなければならない。そのような作家を取り巻く大きな環境変化の中で日常短歌の全盛時代がやって来たと言うことができます。
死ぬまでに梅干は何個食べるのか残業コンビニオニギリを食う 大井学
二十円足らざるゆゑに切符買へず帰れぬ夢の「二十円」は何 花山多佳子
「この子の人生だし関係ないですけどせめて慶応には」詩なのか 染野太朗
朝からの夫の放屁におどろかず秋の窓辺にコーヒーを飲む 小島ゆかり
島田さんが論の中で引用なさっている日常短歌です。「歌にはこころの微かな揺らぎや翳りを表現するほうが向いているかと私は思う」というのが島田さんの見解なので引用も一貫しています。しかし島田さんの日常短歌擁護が絶えず短歌を書き発表し続ける歌人の発想であるのも確かだと思います。一般読者はうんと贅沢なのであり短歌に限らず各ジャンルの最上の作品にしか目を留めない傾向があります。そして古典文学の感動の平均値を鑑みると一般読者が短歌に求めるのは痛切な感情の高みにある。
前回書いたように啄木の「はたらけど/はたらけど猶わが生活楽にならざり/ぢつと手を見る」は実人生での困窮死ともはや切り離せません。作品の意味内容で言えば日常短歌ですが読者の感受(感動)のレベルで他の作品と大きな差が生じます。歌を書き続けること――多作を前提とすればなんらかの形で日常短歌の方法を体得するのは必須です。一方で日常短歌手法(慣れ)は作家の実人生での感情の高みを日常へ押し戻す方向に作用すると思います。近現代歌人が多作と引き換えに失うものもあるということです。バランスの取り方が意外と難しい。
「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」 穂村弘
廃線をいつか歩いてみたかった こんないつかじゃなかったよ楢葉 斉藤斎藤
実弾はできれば使ふなといふ指示は砂上の小川のやうに途絶える 千種創一
気の弱いせいねんのまま死ぬだらうポッケに繊維ごちゃごちゃさせて 吉田隼人
いわゆる口語短歌も基本的には日常短歌です。ただリアルな生活に即した人間の感情を表現するのではなくなんらかのメタレベル表現を目指す傾向があります。穂村作品には坪内稔典俳句の本歌取りの雰囲気がありますが相変わらず一首での完結を目指しています。斉藤斎藤さんや千種創一さんの歌は現実風景に即していますが表現内容は作家の想像界です。だから表現が流れて見える。吉田隼人さんの歌はそのまんましょうね。青春モラトリアム短歌です。ずっとこの歌の位相に留まることはできない。なんらかの形で一歩踏み出せば歌も変わります。口語短歌と言っても様々です。
真摯な口語短歌歌人には現在の歌壇を埋め尽くしている〝実感写生短歌的作風〟を変えたいという指向があると思います。この指向は技術的な変革に向かうか観念的操作に向かうことになります。いずれの場合でも短歌という定型文学の楔が問題になります。俳句より自由度は高いですが短歌も形式文学であり制約がある。かつての現代詩のような高度な技術・観念的操作を行うことはできません。また前衛短歌が強い拠り所にした社会共通の批判意識も現代では見当たりません。そのため極私を表現基板にせざるを得ない。極私的日常表現が極度に難解になり短歌表現と乖離してしまわないラインを探ってゆくことになります。勢いその表現は一般読者には短歌内のトリビアルな差異に写る。ここからどうやって絶対的違いを見せつけてゆくのかは難しい課題です。
いつの日か倖せを山と積みて来る幻の馬車は馭者のない馬車
いとしめば人形作りが魂を入れざりし春のひなを買ひ求め来ぬ
かたはらに眠る人あり年かけてこの存在を問ひ来しと思ふ
光こぼれてゐしやうな若き日々のこと抽んでて歳月の中の歳月
長き長き手紙を書かむと思ひしにありがたうと書けば言ひ尽くしたり
白き蝶ひつたりと翅を合はせたりかくて定まる定型の律
はるばると渉り来たりし歳月を一夜の夢のごとく思ふ
稲葉京子
今月号では稲葉京子さんの追悼特集が組まれています。古谷智子さん選の代表歌三十首から七首引用しましたが歌人が辿るべき歌のお手本のような作品だと思います。たいていの場合詩人はその表現の出発において最も切実なテーマを表現してしまいます。後の長い人生はその成熟のために捧げられると言っていい面がある。稲葉さんの短歌は後年になるほど技術的成熟が増しています。ある意味短歌として文句のつけようがない。つけいる隙のない作品だと言えます。
ただ一般読者が愛随する近現代短歌の名作は隙だらけの作品が意外なほど多い。技術は極点にまで達したら崩さなければならないものなのかもしれません。隙だらけの口語短歌の試みは歌壇をあげての短歌芸術の白紙還元的試みなのかもしれませんね。
高嶋秋穂
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■