新宿梁山泊ブログより(以下同)
杓子定規に言えば、鯨を戯曲の主題に据えた瞬間に唐の思考が大魚に食われた『旧約聖書』のヨナに接続し、「ヨナ書」をベースにそれを幻想的だが現世的で俗な道徳譚に仕立てた『ピノキオの冒険』(カルロ・コッローディ著 一八八三年)へとつながっていったことになる。ヨナもピノキオも道を踏み外して大魚の腹の中に飲まれた者たちだ。
ただ唐はキリスト教的倫理とはまったく無縁である。六〇年代の日本に怒濤のように流入したヨーロッパ不条理劇の、キリスト教的倫理秩序解体とも関わりがない。唐戯曲は最初から神も倫理も存在しない日本的無神論世界である。秩序が存在しないのだから西と東の要素はごた混ぜになり、登場人物たちはすべからく、自己中心的で身勝手でわがままだ。しかしだからといって世界が殺伐とした大混乱に陥ってしまうわけではない。エゴを剥き出しにした登場人物たちが激しくぶつかり交錯し合うとき、西(ヨーロッパ)にも東(日本)にも属さない、ある秩序原理のようなものが垣間見えて来る。
梁山泊版『腰巻おぼろ』では、幕が開くと舞台美術の宇野亞喜良が蛍光塗料で描いた見事な星座のパネルが現れる。だがこれは実は箪笥の側面の一つである。千里眼が経営する易教室はたくさんの箪笥から構成されているのだ。なぜ星座なのか、なぜ箪笥なのかは直感によってしか説明できない。ただ『腰巻おぼろ』の舞台は海や航海ではない。端的に言えば鯨の腹の中が舞台である。登場人物たちはあらかじめ正しい道を踏み外した者たちであり、最初から鯨の腹の中で出会う。もちろんヨナやピノキオが大魚の腹の中から逃れ出たように、鯨の腹の中の世界は、箪笥の抽斗は、いずれ開かれ外へと向かわなければならない。しかし唐戯曲ではパンドラの箱を開くとまず異形の者たちが現れる。
女 2 あなたの夢を見るのをやめたら、あなたはどこにいるとお思い?
おぼろ ここに決まってるじゃないの!?
女 1 ちがいますよ。
女 2 バカな女。
女 3 ちがうのよ。
おぼろ あたしはずっとここにいたし、今も、これからもいるわ。
女 1 あたし達があなたの夢を見るのをやめたら、あなたはどこにもいないことになるのよ。
女 2 何故って、あなたは、あなたはあたし達の夢の中に住んでるものにすぎないんだからね。
女 3 あなたはおしまい。蝋燭が消えるみたいに、パアッ!
女1、2、3 パアッ! さよなら、箪笥の中のアリスより。パアッ! これは盗作、あなたもあたし達の盗作・・・・・・パアッ!
おぼろ、このふざけた人魚芝居を聞く耳痛く、耳をふさいでしまう。パアッと明かりがつく。半分開いた箪笥の中に、三つの人魚の尾っぽが見える。千里眼が箪笥の上にまたがって操り糸ばかりを動かしている。そして尾鰭だけがピクピクと動いている。千里眼、ラッパを吹くと、皆耳をふさいでいた手を離す。
(唐十郎『腰巻おぼろ 妖鯨篇』)
『腰巻おぼろ』で最初に舞台に現れるのは、「それじゃ、一体、この世には、愛せるに足る男はいないのかしら」「ああ、一体どうしたら、実る恋ができるのか、誰か、誰か、教えて下さい」と叫ぶ恋狂いの女たちである。それから易教室の箪笥の中から千里眼が現れ、女たちにいい加減な星占いを授けてやるのだが、この女たちは主婦、人魚、それに熱狂的に太宰文学を愛する文学少女として何度も劇中に登場する。抽象的な恋に恋い焦がれる女たちである。
梁山泊版では佐藤梟、傳田圭菜、海老根寿代、小椋麗華、神谷沙奈美、清水美帆子が四役を掛け持ちするわけだが、同じ女優が姿形を変えて演じる姿を舞台で見て、初めて彼女らが迷える航海者たちを導き、誘惑し、破滅させようとするセイレーンのような存在だとわかる。人魚になった女たちはおぼろに、「あたし達があなたの夢を見るのをやめたら、あなたはどこにもいないことになるの」「あなたはおしまい。蝋燭が消えるみたいに、パアッ!」と告げる。その言葉におぼろはオデュッセウスのように耳をふさぐのである。
鯨に突き立てた銛から伸びるロープに足を絡め取られ、永遠に海の中を漂う破里夫を思い続けるおぼろは、恋に恋する女たちと同類の、夢見る女のような存在である。実際おぼろは最初は恋狂いの女たちの一人として現れ、太宰ファンの文学少女の中にも紛れ込んでいる。ただおぼろは自らの意思で、あるいは女たちから弾き飛ばされるようにその異質な姿を露わにする。おぼろはかなわぬ恋心を抱き続ける女だが、それは抽象ではない。おぼろの決して成就しない恋心は具体的な存在へ、あるいは行動へと突き抜けようとする。
破里夫 抹香は、今眠っている。とても静かに。遮る音はない。月があんなにきれいだよ。
おぼろ どうして眠っているの?
破里夫 音楽を聞かせたんだ。でも、三分間だけだよ、三分間。ロス海の岸辺で、誰かが捨てて行ったレコードが一枚流れていたのさ。それはもう往年のヒットソングだったけど、「ライオンは眠っている」という曲だった。(中略)
おぼろ 昨日、区役所に行きました。そして、あたしの死亡届の写しを貰いました。(中略)
破里夫 もう、余り時間がない。塩吹きの針からレコードがずり落ちそうだ。(中略)
おぼろ これが写しです。あたしの死亡届の写しです。
破里夫 これは株券じゃないか。
おぼろ え!?(手の中のそれを見ようとする)見えない。星が光ってひとつも見えないのよ!(中略)
破里夫 その死亡届の写しをおまえはどうして貰いたいんだい?
おぼろ 食べて下さい。
破里夫 鯨が起きてしまった。聞こえないよ。
おぼろ 食べて欲しいんです。あなたは牡羊座。羊は紙を食べると聞きました。振り返りながら去って行くあんたはあたしをすいくい上げることができなくても、せめてあの写しを食べて貰うことぐらいはできるでしょう。
(同)
マッコウクジラに引きずられ、海の中をさまよう破里夫もまた箪笥の抽斗の中から現れる。彼は死者だがおぼろもまた現世の死者なのだ。おぼろを我が物にしたい千里眼が自分に頼らざるを得ないようにするために、区役所におぼろの死亡届を出したのである。冥界の死者と現世の死者は鯨が眠っているわずかな時間に、これも区役所の抽斗の中から持ってきた死亡届を巡ってかみ合わない会話を交わす。破里夫に死亡届の写しを食べさせることはおぼろが冥界の死者となることを示唆している。しかし死亡届は見つからない。株券に変わっている。おぼろは破里夫の、死者の力を借りずに鯨の腹の中から抜け出さなければならない。
金 ナベシマくん、来てくれ、豹が暴れているんだ! おや、何を食べてるんだい?
ナベシマ (口から株券を取り出して)カブだよ。カブ。それは何匹目の豹かね。(中略)
株屋1 駄目だ、手に負えない。(中略)
ナベシマ 例の歌をかけてみようか。
株屋1 例の歌?
ナベシマ 「ライオンは眠っている」さ。
(同)
再会したにもかかわらず、破里夫と思いを通じ合えなかったおぼろは、彼と暮らした部屋に火をつける。大火事になり、おぼろは焼死したと思われたがもちろん生き延びている。かつての愛の巣を焼き払うことは、冥界の死者として去って行った破里夫への思いを断ち切る儀式でもある。そして最終第三幕が開けるとそこは株式市場だ。ここでもまた、おぼろと破里夫の関係が清算される。
破里夫を演じたのは湯江タケユキだが、彼は証券マンのナベシマとして再び現れる。唐の戯曲には配役までは書いてないので、わたしたちは湯江の一人二役を見て、時間と場所を超えて破里夫が再び現れたことを知る。彼はおぼろの死亡通知を食べてやれなかったが、証券マンとして株券を食べる。そして株式市場で暴れ出した豹をなだめるために「ライオンは眠っている」のレコードをかける。言うまでもなく破里夫が鯨を眠らせるために使った曲だ。同じ構造が時空間を変えて表現され、戯曲の審級が変わる。もはや破里夫の存在はおぼろにとって重要ではなくなる。死亡通知は株券であり、ナベシマ=破里夫がそれを食べることで現世的な効力を失う。
様々な関係性が意識と無意識の間を往還しながら、唐突に交差して結び目を作るのが唐戯曲である。ある関係性は戯曲全体を通じて最後まで残り、ある関係性は意識化されたのちに唐自身によって忘れ去られ、二度と意識化――つまり舞台上で表現されることがない。しかしそれは小説はもちろん、演劇にとってもかつて表現されたことのない、わたしたちの人間意識のリアルな表現である。(下編に続く)
鶴山裕司
■ 金守珍さんの作品 ■
■ 唐十郎さんの作品 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■