よしもとばななはいつから吉本ばななでなく、平仮名表記になったのだろう。
その「天使」という作品は、保育所に勤める女性が女主人公である。若いが子宮癌を患い、子どもが産めない。とはいえ命に別条はないらしく、子ども好きで、保育所では人気がある。そういうあんばいで、悲壮感はない。あるわけがない。よしもとばなななのだから。ただ、ちょっと悲しげなわけである。よしもとばななだから。
女主人公は料理人の男と知り合い、男は彼女を天使と呼ぶ。それで付き合いが始まる。ただ、それだけの短い小説である。
昨今、小説を読むのは女性ばかりと言われる。けれども、そんなことは源氏物語の昔からではなかったか。今も昔も、男たちが読むものは実用に供するためのもの、学問の本も歴史書も、究極的には自らの出世のために過ぎなかった。でなければ完全に息抜きのマンガみたいなものとか。
であれば、出世の一手段としての文壇的なるものはともかく、少なくとも良質のエンタテイメント文学については、女性たちが評価を決めることにならざるを得ない。
よしもとばなな、江國香織、小川洋子といった女性作家たちが注目された経緯は、実用的な情報取材なし、露骨なセックスシーンなどありきたりの仕掛けなしで、なおかつ読者をつかんだという一点に尽きる。
彼女たちの作品は、いわゆる小説的テクニックを駆使したものではなく、構造的に破綻したものも多い。それでも読者はつくわけで、確かに一般の読者というのは別にテクニックを学びたいわけでも、構造に感心したいわけでもない。では大半が女性である読者たちは、彼女たちの作品に何を求めていたのか。
それら作品の最も魅力的な瞬間は、今あることそのものへの哀しみ、諦念に満ちているときであった。それは出世や低級な快楽に身をやつしている男たちへの諦念であり、世界を相対化する視線ともなり得た。
ただ、それは特定の時期に、俗人にも恵まれる「悟り」のようなもので、持続することはない。たまさかそんな心境に陥った女性も、次の瞬間、よさそうな男が現れ、華やかな仕事の成功がちらつきなどすれば、もの哀しい雰囲気など吹き飛んでしまう。彼女たちの読者もまた、同じだろう。
著者である彼女たちもまた、そのはずである。定義不能な薄明の中に「プロ」として居続けるというのは、そもそも語義矛盾というものだ。男が現れ、仕事が佳境に入り、子どもが生まれなどする、めでたい人生のドタバタから距離を置いた「天使」でいるわけにもいかない。
「天使」はその辺りのことをブツブツ言いつつ、でもそのような距離感を抱えた自分だから、こういう男ができたのだ、という自己規定から抜けることなく、したがって他のよしもとばななの多くの作品同様、結末がつかない。もしその結末が見えるときがきたら、そこから普通の意味の「小説」が始まることになるんだろう。
長岡しおり
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■