5月号で吉田秀和氏の「インテルメッツォ」と題するエッセイを取り上げ、健在ぶりを寿いだ矢先、その訃報が届いた。5月22日、98歳であられた。通常なら大往生で、と言うところだが、非常に残念である。
すばる8月号の追悼は縁というか、巡り合わせもはたらいて、よい特集になっている。最初が連載されていた吉田氏のエッセイの最終稿。「思い出の中の友達たち」というのだから、この世への挨拶のようだ。が、しんみりしたものではなく、生きいきと往時を振り返っているもので、明るい音調のレクイエムのようだ。
堀江敏幸の「水天宮のモーツァルト」は生前の吉田氏の思想や雰囲気をよく伝えている。一方で小澤征爾の「直感の人、吉田秀和」は音楽家を教育する氏の顔が、当然のことながら我々の知るものより鋭く、厳しかったと察せられる。
文芸誌である、すばるでの吉田秀和追悼はごくささやかなものだ。が、吉田氏の連載最終稿と二つの追悼文は、音楽的ともいえる不思議な呼応を醸し出している。このような「音楽が聞こえる」瞬間こそが、本質的な意味での「文学的」瞬間ではないだろうか。
追悼特集のページをめくると、短いそれはすぐに終わって、いつの間にか「W紀行文 台湾ー言葉に耳を澄ませて」という記事が始まっている。温又柔の「音の彼方へ」と、管啓次郎の「アリバンバンの島」だ。
が、編集部の意図か意図せざるところか、たぶん意図するところなのだろうが、この「言葉に耳を澄ませて」はまるで、吉田秀和追悼の続きのように読める。外国における「言葉」をその「音」にウェイトを置き、「耳を澄ませ」たとき、日常の母語でがんじがらめの凡庸な「意味」に縛られた意識が解放される。音楽が文学に対して与える、最も貴重な贈り物はそれだろう。
音楽は確かに、文学の底流のようなものを与える。言語化される以前の無意識的な、しかし意識に上れば、これほどエキサイティングなメッセージはない。
そして音楽はそれ自体が波であり、流れの中でたしかに、ある境を乗り越えてゆくと思う。追悼特集と、そうでない記事との境を。または生死の境をすら。
我々の手に遺されたのは、吉田秀和氏という個の名が記された位牌ではなく、すでに音楽への愛そのものであるかのような何かの流れである。そんな気がする。ごく文学的に、「流れゆくエクリチュール」と言うべきか。
すばる8月号の追悼特集では、それが非言語的に、すなわち音楽的に伝わってくる。たいへん奥ゆかしくて密やかな、滅多にない “編集マジック” というものを見た気がする。こういった「編集」なら「創作」に近い。
谷輪洋一
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