「場所の力 言葉の種」という特集で、柴崎友香さんと西加奈子さんという人たちが大阪について対談している。
場所の持つ力によって、テキストが生まれる、ということはある。文化であったり、地形であったり、そこにいたことで初めて書くことが可能になったものは、絶対的にある。
それには、たとえば中上健次にとっての「路地」であったり、あるいは芭蕉にとっての「奥の細道」であったり、その場所を明確に意識し、その場所における自我そのものがテーマとなっているものがある。
しかしこの対談で語られているのは、もっと漠然とした「場」の雰囲気が文学的なるものを醸造することへの期待、といったもののようだ。谷崎潤一郎などを挙げながら、それはたいていの場合、関西圏の関東圏に対する優位性、といった話になる。
文化としては、関西圏の優位性は平安期をもって終わる。かなり時代を遡った歴史小説を書かない限り、同等のことは関東圏でも言えてしまうことになるからだ。
地形については、「平野に文化は生まれない」という辻原登の言葉が引かれており、確かにローム層の関東平野や北海道の平原は、多くの歌枕に彩られた西の地域にかなわないという気が一瞬、する。
しかしよく考えれば、それもトートロジーに過ぎない。「平野には、平野に住まない人々にとっての文化は生まれない」と言っているだけだ。世界的に考えても、大平原が広がる国に、その国の文化はある。
それでも現代のテキストにおいても、関西人が言いたがるのは、関西弁の独特な意味合いなり、ニュアンスなりが野蛮なる人々には通じない、というようなことだ。
だがもちろん、独特の意味合いなりニュアンスを持った言語というのは、日本中の至るところに存在する。私自身、関西と関東の間のようなところにいるが、そこにだってある。特定の地域と言わず、それぞれの職場にも、各家庭にもある。と言うより、一人ひとりにある。その自分特有の言語が確立されると文体と呼ばれ、それを持つ者がすなわち文学者ではないか。
生まれ育った土地の方言で、自身の文体ができてくれるなら苦労はない。生まれ育った家庭環境だの、海外生活の経験だの、特殊な世界での職業だので文学作品が生まれるのなら、これまた苦労はない。
そういった「場所」が書かせてくれる「力」を「種」とした「言葉」の見本市をひろげでもしなくては、というのが今の文学状況だ、と特集の意図が理解できた。本来、文体というのは「書き方の意匠」ではなく、「思想」を表現するはずのものなのだが。
谷輪洋一
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