山本俊則さんの美術展時評『No.075 京都国立博物館開館120周年記念 特別展覧会『海北友松』展(前編)』をアップしましたぁ。京都国立博物館で開催された海北友松展の批評です。友松は狩野永徳、長谷川等伯らと並ぶ桃山絵画の巨匠ですが、回顧展は久しぶりです。また友松展は京都のみの開催でしたね。
日本に限りませんが、古い時代の画家の資料はあんまり残っていません。永徳のように徳川家お抱え絵師となったり、ラファエロのように宮廷画家になって高い社会的地位を得た画家もいますが、彼らは基本的に〝職人〟でした。つまり絶大な権力と富を持つ権力者や富豪の依頼で作品を作った。その意味で近代以降の芸術家とは質が違います。画家たちの個性はクライアントとのせめぎ合いの中で発揮されるのです。
現在の研究では、友松は細川幽斎を始めとする豊臣方武将と深く交わっていたことが知られている。『由緒記』には秀吉に謁見したとあるがそれは確認できない。しかし秀吉のために絵を描いたのは確かなようだ。また慶長三年(一五九八年)には秀吉の命を受けて、博多の小早川秀秋の領地視察に出かけた石田三成に随行している。周知のように慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いで、三成はもちろん、友松に建仁寺大方丈障壁画を画かせた瑤甫恵瓊も斬首に処せられた。幽斎も外様大名として九州の地に追いやられることになった。しかし友松はその影響をまったく受けていない。慶長五年に友松は六十八歳だが、彼の全盛期は七十代から、慶長二十年(元和元年[一六一五年])に八十三歳で死去するまでの晩年なのである。
(山本俊則)
友松に関しては海北家伝来の資料がその伝記の基本になっているわけですが、全部が信頼できる内容ではないようです。封建時代には家の〝祖〟の事跡を顕彰するのが当たり前で、かなり誇張というか盛っている部分も多い。友松の場合も同様で、彼は明らかに豊家に近い画家であり、かつ豊家滅亡にほとんど影響を受けていない。山本さんの批評はそのあたりを踏まえて後編に続くのでしたぁ。
■ 山本俊則 美術展時評『No.075 京都国立博物館開館120周年記念 特別展覧会『海北友松』展(前編)』 ■
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