六月号では『小説が描いた時代、俳句が描いた時代』の特集が組まれている。編集部のリードに「文学は実に時代の影響を受けやすい。(中略)その時代を代表する小説と俳句を並べてみると、その時代を生きた文人、詩歌人の声が大きく聞こえてくるのである」とある。この方針に従って、江戸は元禄時代から、戦後の高度経済成長期までの俳句と小説の抜粋が並んでいる。あきれるほどザックリとしたアンソロジーだが、こういうのもアリかなと思う。確かにある時代の俳句の雰囲気を感受することができる。
大晦日定めなき世の定め哉 井原西鶴
夏草や兵どもが夢の跡 松尾芭蕉
鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春 宝井其角
江戸元禄の俳句を読んでいると、俳句はつくづく現世芸術として成立したんだなぁと思う。「浮世」という言葉は「憂き世」から派生したと言われるが、仏教的末世思想に染まった平安時代や、殺伐とした中世室町時代には確かにこの世は憂き世と感じられたのだろう。しかし江戸元禄になると平和な世の中がやってくる。元禄はバブル期にもなぞらえられる空前の好景気だった。将軍綱吉は生類憐れみの令など無茶な政治もしたが、ま、いいかと思わせるような景気の良さだったようだ。
憂き世は江戸になって浮世になるわけだが、英語ではthe floating worldと訳されることがある。ふわふわした世の中というイメージが浮かんでくる。そうなると、この世の華は綺麗な女性と美男の役者ということになる。怪力力士たちも愛されるようになった。浮世絵(錦絵)が成立するのは元禄よりちょっと後だが、三大テーマは女と役者と相撲である。魑魅魍魎が描かれるようになるのは江戸の文化的退廃がピークに達し、幕府瓦解の予感が漂い始めた江戸後期になってである。
西鶴の「大晦日定めなき世の定め哉」は、いかにも下世話な小説家の俳句である。「定めなき世の定め哉」とあっても、ちっとも仏教的諦念や厭世が感じられない。岸本調和の「秋や金は残らず晦日ばらひかな」などもはっきりとした現世詠である。これはこれで俳句の特徴がよく表れた句だが、芭蕉になると、グッとわたしたちが抱く俳句のイメージに近くなる。
「夏草や兵どもが夢の跡」が引用されているが、芭蕉は句に時間軸を埋め込むのが得意だった。芭蕉の出現から、季語は今現在から、過去を含む時間総体という概念に変わったと思う。芭蕉俳句の雅とは、本質的には過去へと遡る時間軸のことだ。この時間に対する感性は、言うまでもなく芭蕉の古典の知識が基盤になっている。日本の王朝文学はもちろん、彼は当時最新の漢籍にも親しんでいた。古代中国古典である。文字が喚起する過去の時間に敏感な詩人だった。
其角は蕉門きっての俊英だが、彼の特徴は空間表現にある。「鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春」は、なるほど現世詠である。江戸の町は好景気だから、でっかい寺の鐘だって毎日売れるのだといった意味だ。ただ西鶴らの露骨な現世詠とは質が違う。少し深読み的になるが、現世の賑わいを詠んでいるのに、春のおだやかな日に寺の鐘の音が聞こえてくるような句である。
では其角はそのような深読みの効果を意識していたか。していたと思う。「海へ降霰や雲に波の音」など、其角には少しムリクリな句が多い。江戸っ子らしく浮世の諸相を詠むことを好んだが、其角の句が決して下世話にならないのは、その独特の空間把握能力にあると思う。現世の空間をどこまでも広がってゆき、しまいには虚空に抜けるような精神の高みが其角にはある。蕉門として見れば、芭蕉の時間軸と其角の空間軸によって、俳句の骨格は元禄時代にほぼ出来上がっている。
芋の露連山影を正しうす 飯田蛇笏
木がらしや目刺しにのこる海の色 芥川龍之介
神田川祭の中を流れけり 久保田万太郎
(大正中期)
咳をしても一人 尾崎放哉
凩のいづこガラスの割るゝ音 梶井基次郎
分け入っても分け入っても青い山 種田山頭火
(昭和初期)
西鶴と蕉門の江戸元禄時代から、いっきに三百年飛んで大正・昭和時代の俳句を読むと、この間の俳句の変化がよくわかる。大正中期の句は落ち着いている。句型も端正だ。しかし昭和初期になると静かな動揺が見られるようになる。放哉や山頭火の句は定型を無視した自由律だが、俳句の核心をきちんと捉えている。しかしそれまでの河東碧梧桐や荻原井泉水らの、〝俳句の冒険〟としての自由律とはやはり質が違う。
放哉や山頭火は生活破綻者だ。その崩れた生がどこかで俳句形式の崩れにつながり、無頼で怠惰でもあるその精神が、一気に俳句の本体をつかみ取ろうとしている気配がある。そこにはもはや、流派として一家を為すことができる俳句の方法はない。単独者の俳句だ。何かが本質的に壊れ始めているのだ。ただ完全に壊れてしまう前でその歩みは止まっている。長谷川利行の、大恐慌時代の朝を思わせる白々とした絵のようだ。
戦後の前衛俳句と自由律俳句運動の間には直接的な影響関係はないが、昭和初期あたりの、俳句が壊れるような動揺とどこかで繋がっている。俳人は座を離れて、本質的に単独者になり始めている。しかしその単独者の孤独で孤立した精神を嘆き、哀しみ、叫ぶのではなく、あくまで俳句として表現しようとしている。自然や風景に沿って自我意識を表現するのではなく、肥大化した俳人の自我意識が、〝俳句文学伝統〟に沿って風景描写を生み出すようになっている。
昭和衰え馬の音する夕かな 三橋敏雄
いつまでもある機械の中のかがやく椅子 鈴木六林男
戦前の岬にこうもり傘が立つ 夏石番矢
(高度経済成長期)
俳句は短い表現であり、短歌よりも遙かに形式的な表現だから、極端な言い方をすれば適当な単語を繋ぎ合わせても俳句らしきものは出来上がる。そうやって毎日多くの人々が句作を楽しんでいる。しかし各時代の代表句を読んでゆけば、俳句成立期から今日までの大まかな変遷はわかる。
俳人が〝作品〟という概念をはっきり持ったのはいつ頃からだろう。もちろん元禄芭蕉時代にも作品という意識はあっただろう。ただ作品のための作品という意識は薄く、濃厚な座の猥雑さの中から俳句が生まれ出たという雰囲気が漂う。蕉門だけではない。談林の俳人たちも、厳しい現世を諧謔によって笑い飛ばす哄笑の響きで結ばれていた。
この俳句にまつわる愉楽は、正岡子規の明治初期頃までは残存していたようだ。しかし大正期に入るとそれは失われる。虚子門を中心とする大正俳壇が、俳句形式的に見れば最も完成度が高いだろう。だがその分、かつてのような俳句の愉楽は薄い。
言うまでもく、俳句の愉楽といっても滑稽や諧謔だけを指しているわけではない。俳句がぬるりと生まれ出てくるような愉楽だ。芭蕉は俳句は「こがねを打ちのべたるごとくあるべし」と言ったが、それは自然分娩的な俳句創作手法でもある。だが近・現代の俳句は熾烈なまでに俳句作品のための俳句作品を目指すようになっている。それはじょじょに飽和に近づいているようだ。俳句のような俳句になってしまっていて、俳句から遠ざかっている気配がある。
現代では、「わたくしは五七五に季語しか認めない古典的伝統俳人です」と言い切れる人は少ないだろう。「前衛俳人です」と胸を張れる俳人はもはや絶滅危惧種だと思う。じゃあどういう俳句を目指すのかというと、簡単に言えば「いい俳句が書ければそれでいい」ということになる。しかし現代ならではの〝いい俳句〟のヴィジョンが見えているわけではまったくない。勢い過去の俳句の秀作を眺め、模倣し、俳句作品のための作品を書くようになる。だが手詰まり感が強い。
もちろん技術と思想の飽和によって手詰まりを覚えているのは、俳句文学だけではない。小説でも短歌でも自由詩のジャンルでも起こっている。いずれのジャンルでも従来の文学手法が限界に達しているのだ。それをどうやって抜け出すのかが、作家個々の真の能力だということになる。ただどの文学ジャンルにも見られる原初的な愉楽を辿ってみるのは、そのための一つの手がかりになるだろうと思う。
岡野隆
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