七月号では「阿久悠の世界」の特集が組まれている。知らなかったのだが、阿久悠さんは明治大学の卒業生で、明大の中に阿久悠記念館が開設されているそうだ。記念館にはヒット曲のアルバムジャケットや自筆原稿はもちろんのこと、書斎まで再現されている。特集に掲載された写真を見ると、昔ながらの座り机で仕事なさっていたようだ。なんの変哲もない和室である。僕ら世代はテレビでしょっちゅう阿久悠さんの姿を見ていたが、華やかな芸能界にいて、ぜんぜん華やかさを感じさせない方だった。書斎を含めた仕事の流儀もそうだったのだろう。
小説も書いたが阿久悠さんのメインは作詞である。流行歌の歌詞だ。そしてたいていの流行歌は恋愛詩である。要するに好き好き嫌いが歌われている。それは阿久悠さんのように詩だけ専門に書く作詞家はもちろん、アーチストと呼ばれるロックやポップスのソングライターも同じである。大ヒット曲はたいてい恋愛歌になる。それもあってある年齢を過ぎるとソングライターの人気は翳る。ソングライターのファン層はたいてい同世代グループだが、年を取り育児に追われ、リストラに怯えるような年になっても好き好き嫌いでは飽き足りない。社会派の歌で受け入れられたのは、井上陽水など一握りのソングライターだけである。
もちろんソングライターのファンは、歌を通してアーチストの生の心を聞きたい(知りたい)と望んでいる。だから作詞専門の作家のように、ソングライターは自分のキャラクターや考えから大きく外れた歌詞は書きにくい。阿久悠さんのような作詞家は、そういった縛りから自由なわけで、だから様々な歌詞を自在に書けたのだとは言える。しかし阿久悠さんの詩が愛されたのは、それだけの理由ではない。
あなたお願いよ 席を立たないで
息がかかるほど そばにいてほしい
あなたが 好きなんです
『ロマンス』
あなた変わりはないですか
日毎寒さがつのります
着てはもらえぬセーターを
寒さこらえて編んでます
女ごころの未練でしょう
あなた恋しい北の宿
『北の宿から』
阿久悠さんの詩は、設定されたある架空の人格の、徹底した内面独白であることが多い。『ロマンス』も『北の宿から』も「あなた」への呼びかけで始まる。女が愛しい男に呼びかけているのだ。もちろん歌を聴く人は、男のファンならなおさらのこと、「もしかして俺のこと?」と嬉しい錯覚を起こして胸がキュッとなる。だけど胸が熱くなる理由はそれだけではない。あなたへの呼びかけではあるが、本質的にあなたは不在なのだ。
『ロマンス』は思春期の女の子の恋心を書いた詩だが、ここまで激しい女の子の恋心には、現実の輪郭を持ったどんな男も釣り合わない。女の子の恋心が、ほとんど抽象の神を求めるように燃えさかっているからこの歌詞は純なのだ。『北の宿から』も同じで、「着てはもらえぬセーターを」とは書いてあるが、男が生きているのか死んでいるのかはわからない。「あなた死んでもいいですか」という行が現れるが、この絶望は生きているにせよ死んでいるにせよ、男が絶対的に不在だから生じる。もう手の届かないところにいるのだ。その至高点に向かって女心が一筋に燃えあがり、その純な思いを歌詞として言い切っている。
それはスター、あるいはアイドルを想起させる構図でもある。ファンは自分への呼びかけのような歌を聴きながら、その歌詞が実在しない抽象への恋慕であることに微かに気づく。それはファンの決して叶うことのない、偶像としてのアイドルへの恋慕の構図と同じなのである。
「スター誕生」でヘッドホンを付けながら、ほとんど値踏みするような冷たさで女の子たちを見つめていた阿久悠さんの姿は強く記憶に残っている。阿久悠さんの回りにはエンタメ・ショーではなく仕事場の雰囲気が漂っていた。彼が成功した理由の一つは、歌詞が歌い手の声や性格、容姿の雰囲気を見切った上でのアテ書きだからだろう。鋭い観察眼と高い知性がなければドンピシャのアテ書きはできない。
バーボンのボトルを抱いて
夜ふけの窓に立つ
お前がふらふら行くのが見える
さよならというのもなぜか
しらけた感じだし
あばよとサラリと送ってみるか
『勝手にしやがれ』
恋歌である以上、主人公と恋人が現れるのは当然である。しかし恋人の客観描写はほとんどない。「バーボンのボトルを抱いて」「ふらふら行く」のは、ベッドで寝たふりをして見ている自分でもいいのだ。それは心象風景だ。わたしとあなたの間で、「あばよとサラリと送ってみる」ことはすでに決まっている。その意味で別れる二人は深く理解し合っている。「ふたりでドアをしめて/ふたりで名前消して/その時心は何かを語り出す」(『また逢う日まで』)のである。つまり別れの理由は単純な好き好き嫌いではない。男不在の女心のように、男女の愛が一段と高い抽象にまで昇華されている。
そのひとのやさしさが
花にまさるなら
そのひとの美しさが
星にまさるなら
君は手をひろげて守るがいい
からだを投げ出す値打ちがある
ひとりひとりが思うことは
愛するひとのためにだけでいい
君に話すことがあるとしたら
今はそれだけかもしれない
『ヤマトより愛をこめて』
先日のボブ・ディランのノーベル賞受賞の際にもかしましく議論されたが、歌詞はメロディーと切り離せない。一度でもメロディ付きの歌を聴いてしまうと、メロディーがいいのか歌詞がいいのか、判断がつきにくくなってしまうのだ。だから作詞家の歌詞のレベルは、メロディーを知らない歌詞の方が判断しやすい。
『ヤマトより愛をこめて』のメロディーを、僕は知らない。『宇宙戦艦ヤマト』は子供の頃に大ヒットしたテレビアニメだが、大嫌いで見なかった。ヤマト一艘で圧倒的な軍勢の中に飛び込んでゆき、しかも勝てると信じているあの馬鹿げたヒロイズムが、吐き気がするほど嫌いだった。勝ちたいなら圧倒的戦力を揃えるのが鉄則だ。別に反戦論者でもなんでもなかったが(そんな年でもなかった)、特攻隊精神なんて糞喰らえと思っていた。
ただ阿久悠さんの『ヤマトより愛をこめて』の歌詞はとてもいい。歌詞ではあるが、「ひと」や「ひとりひとり」が平仮名で表記されている。その表記法に必然性がある。目で読まれることも意識して書かれた詩だ。
失恋歌にせよ怨み歌にせよ、阿久悠さんの歌詞が魅力的なのは、その圧倒的な肯定性にあるだろう。悲しい、あるいは恨むほど愛しいと思う人間の心が肯定的に吐き出されている。それは基本的に向日的なものだ。そういった前を向いた精神が、『ヤマトより愛をこめて』のような詩にはよく表現されている。
で、人間の感情を歌う短歌ならまだしも、阿久悠さんの歌詞から俳句が学べることは、残念ながらほとんどないだろう。一時期ヘプバーン俳句なども流行ったが、人の心を歌うには俳句はとても分が悪い。愛や怒りや悲しみでもいいが、強烈な人間の感情が個的な輪郭を失う抽象にまで昇華され、風景描写などとして高められる時に俳句は最も力を発揮するからである。蕪村の「お手討ちの夫婦なりしを更衣」などはほとんど物語で、そこからいくらでも意味を読み取れる。しかし人間的感情の高み自体は過ぎ去っている。ただ冷たいまでの冷静さで、人間感情の熱を歌う阿久悠さんの姿勢からは学べるかもしれない。
歌人は自己の自我意識から生涯逃れられない。しかし俳句は、〝俳句総体〟とでも言うしかない至高の存在からの演繹である。個を滅私にしてそこに近づくことが、俳人の自我意識の苦悩なのだ。だから俳人は、俳句総体にピタリと合うようなパズルのピースを見つけられるなら、原則としていくらでも浮気していい。ソングライターに課せられたような自我意識の縛りはないのだ。不在の至高存在へと向かう言葉の多様性が阿久悠さんの歌詞にはある。しかも歌詞という言葉数の定型的制約を課せられている。苦しみながら自由な表現方法を見つけ出したはずだ。
岡野隆
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