俳句界はずっと俳句とカラー写真を組み合わせたページを掲載しているが、五月号では本格的に「フォト俳句を楽しむ」という特集が組まれている。中でも写真家の浅井愼平氏のインタビューが面白かった。浅井氏は写真と俳句を組み合わせた『悲しみを撃て』という本を出しておられる。インタビュー冒頭で「僕が写真と俳句の本を出すのは、これが二冊目です。写真と俳句を組み合わせる表現方法は、これまでも〝写俳〟〝フォト俳句〟とか呼ばれて、ずっと前からあったのですが、僕にはどこかしっくりこなかった。で、方法論をずっと考え続けてきました。そんな中、今の段階ではこんなところかな、というのが今回の『哀しみを撃て』です」と語っておられる。
文学とビジュアル・メディアの関係は簡単なようで難しい。マンガ原作がテレビ化されると、しばしば原作とイメージが違うといった不平がツイッターなどに溢れたりする。小説原作でも同じようなことが起こる。自由詩の世界では二十世紀初頭あたりから、絵と詩を組み合わせた詩画集が盛んに作られている。しかし傑作と呼べるような詩画集は意外なほど少ない。ビジュアル全盛時代だからといって、そう簡単に文字とビジュアルは馴染んでくれないのだ。
ハイクグラフィーの場合、難しいのは、俳句が、写真鑑賞の邪魔になってしまう、あるいはその逆の場合です。両者があることで、1+1から2以上に、あるいは他の詩の世界へと飛躍を生まなければいけない。そういう様式として納得出来る作品を作りたい、というのが僕の挑戦なんです。(中略)僕自身、この〝ハイクグラフィー〟が完全な正解だとも思ってはいません。ただ、この様式の一つの高みに少しずつ近づいていくほかないですからね。
(浅井愼平インタビュー「〝ハイクグラフィー〟の未来と期待」より)
浅井氏は写真と俳句を組み合わせた自らの試みを〝ハイクグラフィー〟と呼んでいる。ただ写真家としてのキャリアはもちろん、俳人としてのキャリアも長い氏は、その試みを簡単なものだとは考えていない。写真だろうと絵だろうと、文字とビジュアルの組み合わせが「1+1から2以上に、あるいは他の詩の世界へと飛躍を生まなければいけない」のは変わらない。しかし浅井氏が〝ハイクグラフィー〟の試みを「この様式」と呼んでいるのは興味深い。詩人と画家の組み合わせは火花散る一瞬の個性の融合だが、ハイクグラフィーは様式化できるかもしれないと考えておられるということだ。
人間は様式から逃れられない。これが僕の結論です。二十世紀の芸術運動を振り返ってみると、過去の様式を壊す、否定する、ということでした。(中略)でも、どんなに壊すのが面白くてもそれは一瞬のもの、永遠にはなりえない。するとどうなるか? つまり様式があるから面白いと気付くわけです。(中略)落語家の桂枝雀さんと対談をしたとき、彼は、面白いことを言っていました。落語には座布団に座るという様式がある。逆に言えば、座布団に座っていれば落語である。じゃあ座布団には座っていないけど、指だったり、髪の毛だけが座布団に触れていたらどうか。彼の結論は、触ってさえいれば、それは落語だ、と。(中略)俳句もそうだなと。よく、あれは俳句か否かという論争がありますが、例えば尾崎放哉、種田山頭火・・・・・・。当然〝触って〟いますよね。だから俳句なんです。
(同)
様式の破壊は革命だと言えるが、永久革命は不可能である。ただ破壊の後の再構築では何かが確実に変わっている。俳句に即せば、身近なところでは戦後に高柳重信の多行俳句による形式の破壊があった。重信は山頭火は「人生からも、仕事からも家庭からも、俳句形式からも逃げ続けただけだ」と厳しく批判した。逆に言えば重信の俳句形式の破壊は、真っ正面からその本質に挑むものだったということである。
ただ重信が晩年に、浅井氏の文脈で言う〝様式〟に回帰しようとしていたことは余り論じられない。子規俳句が写生一辺倒だと言われるようになったのと同じように、重信と言えば多行俳句である。しかし重信は本質的に古典俳人でかつ前衛俳人なのだ。破壊の後の再構築を考えていた。有季定型写生俳句しか認めない伝統俳人を前衛俳人は批判するが、多行俳句にこだわり思考が固着化しているのは前衛俳人も同じだ。ある本質に「触ってさえいれば」俳句は成り立つ。それを認識しなければ多行俳句など、近世以降の俳人の自我意識を満足させる奇矯なオモチャに過ぎない。
俳句は俳句で、写真は写真で究めようと、そういう気概がないとダメだということ。まして、二つ合わせてごまかすなんていう考えは絶対ダメ。テクニック、技というのは無視出来ないものだけど、本当のところは生き方、人生に対する姿勢。芸術や文学はそういうものが問われていると思います。(中略)それがなければ、どっちもうまくいかないんじゃないかな・・・・・・。
(同)
現代では俳句よりも写真の方が大きくその環境が変わっている。荒木経惟は使い捨てインスタントカメラが出現したときに、「これからはオシャーシンの時代よ」と言った。シャッターを押しゃあ簡単に写真が撮れるという意味である。しかしそれは序章に過ぎなかった。高性能のデジタルカメラが出現し、写真家という職業のあり方はもちろん、報道のあり方も大きく変わり始めている。誰もがカメラマンで報道記者になれる時代である。ただそういう時代だからこそ写真の本質が問い直されている。「本当のところは生き方、人生に対する姿勢。芸術や文学はそういうものが問われていると思います」という浅井氏の言葉はナイーブだが、彼の〝ハイクグラフィー〟の試みは写真の本質を問い直す作業でもあるだろう。
写真と俳句は似ている面がある。どちらも一瞬の現実を切り取る。芭蕉の「古池」や子規の「柿食へば」に鮮やかに表現されているように、実に単純な風景描写が何かの本質に届くのである。写真も同様だ。作為に満ちた写真よりも、何気ない一枚が人の心を深く捉えることがある。どちらもテクニックは必要だが、ほとんど無私の境地に近い一瞬にこそ、逆説的に作家の全人格が表現されることが多い。
浅井氏という写真家の、写真を興味の中心に据えた俳句芸術への興味がハイクグラフィーという〝挑戦〟として示されている。俳人はこの試みを、俳句芸術へのすり寄りと捉えていい気になってはいけない。俳句という、実態は密室的な芸術が、これからも今のような平穏無事な凪ぎの世界であり続けるとは限らない。本質を探究せず些末な技術に拘泥し続けている間に、俳句を大局的に捉えることのできる俳人以外の外部の視線が、俳句文学の本質を明らかにする可能性だってある。俳句だけを見つめていては、その本質を掴めないということである。
スコールやタヒチの手紙巴里まで 浅井愼平
岡野隆
■ 浅井愼平さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■