保坂和志の特集である。なぜ保坂和志なんだろう、と考える。慶應出身じゃないのに。慶應出身でないと、特集を組んではいけないというわけではない。たとえば夏目漱石特集ならいいと思う。夏目漱石は慶應出身ではない(もちろん)が、慶應出身者にあまねく影響を与えたからだ。森鷗外の特集でもいいと思う。森鷗外も慶應出身ではない(もちろん)が、慶應出身者にあまねく影響を与えたからである。
三田文学の特集というのは、そのようなかたちでないかぎり納得されるものではない。大江健三郎特集も村上春樹特集も、三田文学にとっては厳しい。社会的にどのように認知されていようとも慶應にとってそれが何なのか、が言外に問われるのが三田文学だ。一方でたとえば、古井由吉特集ならまあ、ありかも、という気がする。何らかのかたちで慶應出身者に影響を与えているかもしれないからだ。
このへんの線引きは確かに微妙で、大江健三郎特集や村上春樹特集よりは保坂和志特集の方がまだありなのかもしれない。ただ、もし保坂和志が慶應出身者に影響を与えているとしても、それは偶発的なものだろう。すなわちある慶應出身者にある影響を与えた、という以上のものではない。
三田文学が特集すべき作家が慶應出身者に与えるべき影響とは、その書き物の方向性に本質的に与える影響でなくてはならない。そして誰であれ、他者の書き物に本質的な方向性を示唆するなら、それは相当の大作家であるか、あるいはもともとそれが近い資質の他者である必要がある。
保坂和志の場合は後者で、もともと慶應的な資質を備えているという認知があるのかもしれない。すなわちこの作家は本来、三田の出身であるべきだったのだ、とか。なぜ早稲田出身なのだ、という異議申し立てならなお面白い。決定的な理不尽に対するなぜだ、という絶望的な異議申し立てはそれ自体結構、文学的である。そして結構文学的、という結構は三田的である。
しかしこのオカシさは、あくまで三田という存在のオカシさであって、なぜなら保坂和志は外部から見ればちっとも三田的ではないからだ。すなわち保坂和志はその外部に繋がるチャネルを有している。それはいわば早稲田的な処世のものでもあり、慶應に欠落しているのだが、それにまったく気づかないというのが慶應の美しいところである。この美しさは文学ではないか。
自覚がなければ商業文芸誌のズレたパロディのようになり、自覚があれば品のよい大学雑誌になるしかない。しかしそのどちらも今さらということなら、オルタナティブな方途を探るしかあるまい。それは骨が折れるというよりは、よほどの特殊なセンスを要することのように思える。
あらゆるものはスリリングに生まれ変わる可能性を秘めている。そしてその可能性が覗くのは、あり得ないズレや甚だしい勘違いの瞬間であることが多い。それを単に非難するだけでは誰にとっても退屈な現状が続くだけだ。平板な光景も一瞬の光に切りとられ、立ち上がるときがあるように思う。
池田浩
■ 保坂和志さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■