岡野隆さんの『句誌時評』『No.059 月刊俳句界 2016年05月号』をアップしましたぁ。『フォト俳句を楽しむ』という特集の、写真家・浅井愼平さんのインタビューを取り上げておられます。浅井さんは写真と俳句を組み合わせた本を出しておられ、自らの試みを〝ハイクグラフィー〟と呼んでいます。
浅井さんはインタビューで、『人間は様式から逃れられない。これが僕の結論です。二十世紀の芸術運動を振り返ってみると、過去の様式を壊す、否定する、ということでした。でも、どんなに壊すのが面白くてもそれは一瞬のもの、永遠にはなりえない。するとどうなるか? つまり様式があるから面白いと気付くわけです。』と語っておられます。俳句芸術の基本の基本にこだわって、写真と俳句の組み合わせを模索しておられるわけです。
作家は一つの文学ジャンルに一生懸命になると、そのジャンルが万能だと考えがちです。その過度の思い込みが面白い作品を生み出すことはあります。しかしやはり一つの文学ジャンルは万能ではない。その限界を知り、その基盤を確認することが、新たな作品を生み出すこともあります。
岡野さんは『様式の破壊は革命だと言えるが、永久革命は不可能である。ただ破壊の後の再構築では何かが確実に変わっている。(中略)高柳重信が晩年に、浅井氏の文脈で言う〝様式〟に回帰しようとしていたことは余り論じられない。子規俳句が写生一辺倒だと言われるようになったのと同じように、重信と言えば多行俳句である。しかし重信は本質的に古典俳人でかつ前衛俳人なのだ。破壊の後の再構築を考えていた。有季定型写生俳句しか認めない伝統俳人を前衛俳人は批判するが、多行俳句にこだわり思考が固着化しているのは前衛俳人も同じだ。ある本質に「触ってさえいれば」俳句は成り立つ。それを認識しなければ多行俳句など、近世以降の俳人の自我意識を満足させる奇矯なオモチャに過ぎない』と批評しておられます。
石川も岡野さんと同じで、俳句文学の基本的原理は〝有季・定型〟にあると思います。もちろん有季定型以外の俳句が俳句でないということは絶対にありません。〝ある本質に「触ってさえいれば」俳句は成り立つ〟のです。だけど本質を理解していなければ前衛の試みはムダになります。変わったことをやりたい、目立ちたいというくらいの意識では、絶対に俳句形式に太刀打ちできないのは間違いありません。
■ 岡野隆 『句誌時評』『No.059 月刊俳句界 2016年05月号』 ■
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