『魅惑の俳人』で久保田万太郎の特集が組まれている。万太郎は明治二十二年(一八八九年)東京雷門生まれで、昭和三十八年(一九六三年)に満七十四歳(万太郎の意識では数え年の七十五歳だったろう)で没した作家である。岸田国士、岩田豊雄らと劇団・文学座を結成した劇作家・演出家として有名だが、小説や俳句も手がけた。俳句の世界では終戦直後創刊の万太郎主宰誌「春燈」が有名である。
万太郎の時代は高濱虚子主宰『ホトトギス』の全盛期で、写生俳句が一世を風靡していた。この状況に対峙して「春燈」は抒情派と言われたりもするわけだが、それもしっくりこない。俳壇政治にはほとんど興味がなかっただろう。確かに万太郎先生は押しも押されぬ大家で、残っている映像などを見てもちょっと怖いくらいの大先生である。しかし「春燈」は来る者拒まず去る者追わずの俳誌だった。意外にあっさりとしたところのある大先生だったのである。
大先生には申し訳ないが、万太郎作品は寝っ転がって気楽に読むと面白い。小説も戯曲もそうである。俳句も「ああ万太郎はいいな」と思わせる独特の味がある。変な言い方だが万太郎先生は生活に困っていなかった。俳句は余技で、そこで金を儲けたり、社会的地位を得ることなどぜんぜん考えていなかったようだ。戯曲などで十分潤っていたからだとは言えるが、それはやっぱり万太郎先生の人柄を矮小化してしまうことになるだろう。〝粋〟なのである。浅草雷門の足袋屋の息子として経済観念はしっかりしていたが、金や地位に対しては本質的に恬淡としていた。万太郎に「なぜ先生は大先生なんですか?」と聞いたら、「お前らが大先生だと言うから、大先生でいてやるんだ」と答えるかもしれない。
双六の賽に雪の氣かよひけり
寒ンに耐ふ魚のごとくに身をひそめ
しらぬまにつもりし雪のふかさかな
竹馬やいろはにほへとちりぢりに
だれかどこかで何かさゝやけり春隣
島崎先生の「生ひ立ちの記」を讀む。――ありし日の柳橋のほとりの家々のさま思ひでらる
神田川祭の中をながれけり
たけのこ煮、そらまめうでて、さてそこで
帝国劇場五月興行、「短夜」演出ノートより
短夜のあけゆく水の匂かな
いまは亡き人とふたりや冬籠
手拭もおろして冬にそなへけり
日向ぼこ日向がいやになりにけり
銀座
あきかぜのふきぬけゆくや人の中
たかだかとあはれは三の酉の月
たましひの抜けしとはこれ、寒さかな
死んでゆくものうらやまし冬ごもり
雪の傘たゝむ音してまた一人
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな
久保田万太郎
万太郎には不思議と冬の秀句が多い。「寒ンに耐ふ魚のごとくに身をひそめ」などから、先生は寒いのが大嫌いだったことがよくわかる。ただ「冬籠」、あるいは〝籠もる〟という言葉(姿勢)には万太郎の精神がよく表れている。多くの弟子や仲間に取り囲まれていたが、万太郎が俳句で表現した精神はどこか寂しい。「いまは亡き人とふたりや冬籠」、「死んでゆくものうらやまし冬ごもり」には、孤独とも言い切れないような透明な万太郎の精神がよく表現されている。
だから「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」が万太郎代表句として響くのだ。湯豆腐は当然のことながら白い。雪と寒さにつながるわけで、その温かさにも孤独の影はある。湯豆腐でなければならず、生の礼賛である明るい世界ではなく、そこに見えるのは「いのちのはてのうすあかり」でなければならない。よほどの日本通でない限り、外国人にはなかなか理解しにくい句だろう。
万太郎先生は江戸っ子でもあった。「たけのこ煮、そらまめうでて、さてそこで」や「日向ぼこ日向がいやになりにけり」などは、実に下町っ子らしい句だと思う。どこか斜に構えた雰囲気なのだ。最も下町っ子らしい下町っ子は、都会に出て来た田舎者のようにブランド物で着飾ったりしない。内面が引き立つようなさりげない洒落を心得ている。磊落で人好きがするが、背中が凍るようなことをズケッと言ったりする。楽しく快活に歩きながら、「たかだかとあはれは三の酉の月」とうそぶいたりするのだ。大声で政治信条を口にすることもないが、後ろから人の頭をスリッパで叩くような作品を作ったりする。池波正太郎、荒木経惟、山田太一、小林信彦、唐十郎、吉岡実などみな浅草近辺の生まれである。
万太郎の「鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな」も秀句だが、どこか滑稽味がある。深刻な顔をして書斎で書いた句だとも、美食家だったから、宴席で戯れに詠んだ句だとも受け取れる。もちろん「鮟鱇」でなければこの句は引き立たない。鮟鱇はグロテスクだがその身は意外と淡泊だ。銀座の人ごみを歩いていて「あきかぜのふきぬけゆくや人の中」と詠むお方である。一所懸命だけが俳句の秀句を生むわけではないと教えてくれる大先生である。
後すさりして右回り冬の蠅
一遍の口の辺より雪蛍
迷い蟻海の向こうに熊野の地
狐火を見に来いと云うおばばかな
石叩きそこここあそこそこあそこ
自然薯の穴掘れ細く深く掘れ
菓子箱の中はからっぽ鵙の声
やれ蛙起こすな蛙畑を打つ
木の実独楽茶碗の外へ弾けけり
どろどろと神楽の杜の銀河濃し
椋の実のぽつと鳴りたる靴の底
雪の夜の遊びせむとや影法師
角三つ生えたる鬼ぞ炭はねる
まいまいの殻の吹かるる寒さかな
西池冬扇「鳥虫戯歌」より
西池冬扇氏は俳誌「ひまわり」主宰で、こちらは専門俳人ということになる。専門俳人というのは、俳句表現に全精力を注ぐ作家という意味である。ただ「鳥虫戯歌」の肩の力の抜け方は、俳句という表現の本質をよく理解した作家のものだと思う。「後すさりして右回り冬の蠅」「石叩きそこここあそこそこあそこ」「自然薯の穴掘れ細く深く掘れ」「木の実独楽茶碗の外へ弾けけり」などの句には〝中心〟がないことがはっきり表現されている。
俳句は日本文化の本質を的確に表現できる文学だが、それは何らかの観念や人間の強い意志として表現されるものではない。常に肩の力が抜けたような描写から、帰納的に表現されるものである。だから俳句に一生懸命になることは、欧米の作家のようにある表現に全身全霊で打ち込むこととはちょっと質が違う。比喩的な言い方になってしまうが、俳句に不意打ちをかけるような一瞬の精神の高みである。芭蕉は俳人であると同時に優れたエッセイイストであり、蕪村は画家でもあった。一所懸命とは俳句に対する心の余裕のことでもある。「雪の夜の遊びせむとや影法師」で良いのである。
岡野隆
■ 久保田万太郎の本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■