Kawai Project Vol.2 『まちがいの喜劇』
鑑賞日:2016年9月7日
於:あうるすぽっと
出演
髙橋洋介 岩崎加根子 原康義 小田豊 多田慶子 梶原航 寺内淳志 沖田愛 島本和人 チョウ ヨンホ 野口俊丞 辻村優子 クリスタル真希 押田栞 田部圭祐 峰崎亮介 青井そめ 中山真一(ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者)
翻訳・演出 河合祥一郎
音楽 後藤浩明
美術 平山正太郎
演出助手 稲葉賀恵
照明 富山貴之
音響 星野大輔
衣裳 月岡彩
ヘアメイク 武井優子
舞台監督 本郷剛史
宣伝デザイン 荒巻まりの
制作 玉塚充
制作補・票券 新居朋子
『まちがいの喜劇』1幕1場。1594年の祝宴の席とはうって変わって、現代の観客席は静粛だった。大きな門扉を背景にした舞台の中央で、ヴィオラ・ダ・ガンバの独奏(奏者・中山真一)がはじまると、遅れてきた観客を装った幾人かの俳優たちが観客席から舞台へとのぼり、奏者を緩やかに囲んで、しばし演奏に聴き入っている。そこに、エフェソスの公爵ソライナスと、捕らわれの身となったシラクサの老商人イジーオンが登場する。イジーオンはソライナスに、処刑をもってこの身の不幸を断ち切ってくれるよう懇願するが、ソライナスは彼が都市間の往来を禁ずる法を犯してまでエフェソスに入港した経緯を尋ねる。聴衆は自然とイジーオンの身の上話に耳を傾ける。イジーオンが妻との間に双子を授かったその日、偶然にも同じ宿で生まれた双子をもう一組引き取ることとなり、ここに二組の双子がそろった。しかし航海中の大嵐によって、父母は分かたれ、双子の兄弟たちもまた生き別れた。父と共にシラクサで成長した双子の片割れたち(シラクサのアンティフォラス、ドローミオ)は母と兄弟を探して旅立ち、父もまた妻子を探して諸国を渡り、ついに禁制の敷かれたエフェソスの港に足を踏み入れたのであった。順風満帆の家族を引き裂いた不幸な運命に聴衆は涙する。ソライナスも心動かされ、できる限りの恩恵として、夕刻までに法の定める身代金を借り集める猶予を与える。
1幕1場は、これから展開される双子の取り違いを理解するために必要な前置きであると同時に、昼食前から夕刻にかけての半日間の出来事という喜劇の大枠を提示する。ドタバタの喜劇を楽しみに待つ観客にはいささか重苦しい長台詞かもしれないが、聞き漏らしては元も子もないというほど重要な場面である。そこで本作演出が周到に用意したのは、わざわざ観客席から立って舞台にあがる観客代表、または「理想の観客」たちだった。彼らの足取りによって、エフェソスと観客席は地続きとなり、劇中世界が現実世界の方へと拡張される。もちろん演出の導きがなくとも、現代の静粛な観客はイジーオンの身の上話に耳を傾けただろう。芝居の設定や背景が伝わらなくなるようなことはまずありえない。それでも、この演出は重要事を含んでいたように思う。それは我々観客と劇中世界の距離を縮めるためであり、劇中世界から観客席に語りかけられる言葉を受容する素地となる。
本作を彩るライムや言葉遊びの数々は、劇中世界の人物間のフィクショナルな対話を離れ、劇場の観客の感心を求めて歌い上げられる。全台詞の九割近くが韻文で、二行ずつ脚韻を踏むカプレットが連発する。本作上演のために書き下ろされた新訳はこのライムをすべて訳出するという力業であるが、それを発声する俳優もまた、観客席に向けて巧みな詩行を誇る。これについて上演台本には「リアリズムから離れて台詞を歌い上げる効果がある。本公演では、こうしたリズムやライムを正しく伝えることも課題の一つとする」とあり、意図的に強調していることがうかがえる。
こうした台詞に対して観客の取るべき態度を示すのが冒頭の演出なのだ。我々観客はフィクションをフィクションとして受容するとき、物語世界とは無関係でいられる。その無関係さを前提として物語世界の精巧さを追い求めたとき、芝居はよりリアルになり、観客席と舞台を隔てるいわゆる「第四の壁」が建てられる。舞台の四角い空間は別世界を覗き見るための窓枠となり、観客は舞台の人物に気づかれることのない無色透明な窃視者となる。そのような演劇の完成形の対極にあるのが本作である。俳優たちはリアリズムを離れて観客の存在を公然と認め、語りかける言葉をもって関係しようとする。我々も無色透明であることをやめ、観客席を立って舞台のほうに一歩足を踏み込むこととなる。エフェソスの住人になるというのではないが、時間も空間もかけ離れた現実界に留まるのでもない。そのとき我々はどこにいるのか。劇場にいるのだ。そこは登場人物の声と俳優の声が二つとも同じく聞こえる空間であり、現実世界の2時間と劇中世界の半日が同時に経過する宇宙でもある。
よく知られているように、シェイクスピアの活躍した当時のエリザベス朝の劇場では、大掛かりな舞台美術などはあまり用いられなかった。劇中世界に言葉が先行し、俳優が言及することで世界のディテールが出現した。時間空間もその一部だった。『まちがいの喜劇』は同じ場所での半日の出来事が描かれているため、場所・時間・筋立てが一貫している「三一致の法則」を守った作品として、シェイクスピア戯曲では『テンペスト』とともに稀有な部類に入る。しかし他の作品では、全五幕のあいだに平気で十数年の時が流れたりもする。このような自由な時間操作が可能なのも、俳優の言及が世界創造であるという表象のメカニズムによるものだ。ゆえに観客とは、聴覚を視覚に優先したAudienceであった。『まちがいの喜劇』は初期喜劇作、出世を志す若き劇作家の野心作である。Audienceを楽しませるライムの比率は、韻文全行数に比して約25%に及び『恋の骨折り損』『真夏の夜の夢』(両作品とも初期喜劇)に次いで全戯曲中三番目に多い。しかも両作より散文の割合が低いため、いっそうリズミカルな台詞の音楽性が際立つ作品である。
©中山留理子
リアリズムをはなれて魅力的に装飾された言葉は、舞台から観客席へ、観客席から舞台へと還流する。それは劇中世界以上に劇場空間の充実を図ったダイナミックな意匠である。音節の構造がまるで異なる英語原文と日本語では、リズムとライムの訳出は本当に骨を折る作業であるが、そうまでして音楽性の保存に努めるのも、このダイナミズムを損なうことなく再現するためだろう。すれ違う双子に振り回されて混乱を極める舞台上でも、リズムとライムは乱れることなく、詩が喜劇の秩序でありつづける。観客の想像力には詩の満ちて響き渡る劇場が構築される。エリザベス朝の劇場上演に先立って、シェイクスピアの筆が戯曲のうえに設計した「オリジナルの劇場」である。「原文の面白さ」を追求した本作の試みはこの劇場建立に成就し、それはまたシェイクスピアが理想としたAudienceで満員の観客席の再現ともなる。
本作の演出の要である二組の双子の演技法もまた、劇場と劇中世界の両方を眼差す観客の目を楽しませるものだった。ドローミオ役の梶原航と寺内淳志は姿形も演技法も酷似させ、別人であるのを承知しているのに色違いの衣装を頼りにようやく見分けられるというような瞬間が多々あるほどであった。それに対して双子のアンティフォラスを一人二役でこなす髙橋洋介は、声音と性格を演じ分けるが姿形は全く同じという、ドローミオ表象を反転させた演技法で双子を表象する。最終幕でアンティフォラス兄弟が再会する場面では、同じ衣装をまとってそっくりに仕上げた俳優をもう一人登場させるが、髙橋の台詞に合わせて当て振りをさせることで、髙橋の分身が現れたかのような錯覚を引き起こした。二人のアンティフォラスを一人で演じるということは、ほぼ全幕を通して舞台に出ずっぱりになるということでもある。運動量、台詞量ともに大役である。書き割りを施したパネルの移動のみで転換される簡素な舞台であるから、幕間の休みというのもほとんどない。上手下手を神出鬼没に行き来しながら演じ分ける様は圧巻だった。
©中山留理子
加えて、シェイクスピアの劇場建立という点で、舞台のつくりにも工夫があった。最終幕、舞台中央の大きな門扉がついに開かれると、岩崎加根子の演じる修道院長が登場する。その正体はイジーオンの妻であり双子のアンティフォラスの母・エミリアである。こうして嵐で生き別れた家族は再会し、双子の巻き起こした騒動も解決され、イジーオンも釈放、物語は大団円に閉じられる。和解の瞬間を演出する、開かれた門扉と、その奥に見える豪華絢爛な教会の背景は、エリザベス朝の舞台に備わっていたカーテンで閉じられた奥舞台を再現するものだ。
結論すれば、本作は最新研究と新訳の試みからさらに精緻に再現されるシェイクスピアの劇場に、現代の観客を招き入れるものであったといえる。最終幕の締めくくりには、俳優が舞台に勢ぞろいし、ヴィオラ・ダ・ガンバとギターの伴奏で合唱するという演出が加えられた。原作にはない16行の詩行を高らかに歌い上げ、劇場は拍手に包まれる、祝祭的な幸福な時間である。ここに竣工されたシェイクスピアの劇場を寿ぐ祝宴のような。
星隆弘
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