大篠夏彦さんの文芸誌時評『No.031 文學界 2015年11月号』をアップしましたぁ。朝比奈あすかさんの『手のひらの海』、水無月うららさんの『きみから見える世界』、それに園子温監督インタビュー『俺は異端じゃない』を取り上げておられます。大篠さんは小説文学の型について、次のやうに書いておられます。
〝男と女と金と家族の主題〟が小説の型を規定するわけだが、もっと大胆に抽象化すれば、それは性と暴力と愛の関係ということになる。性と暴力は人間の根源的欲求の喩だが、愛は人類が知性を持つことで生み出した抽象概念である(中略)。人間の身勝手でプリミティブな欲求をどうやって抽象概念にまで昇華するのかが小説の一貫した主題であり、それが自ずから小説の型を作り出している。
大衆文学はこの型に沿ってきっちり作品を仕上げる。心温まるが、どこかで読んだような大団円はそうして形作られる。逆に言えば、純文学はこの型を外そうとするので、時に前衛的な顔つきになる。ただ純文学作家が〝型がある〟ことを意識しないで型を外そうとすると、何を表現したいのかわからない中途半端な作品になることも多い。
(大篠夏彦)
文学金魚は純文学系のメディアですが、ステレオタイプな純文学に対しては冷たいです。蓮実重彦さんが昔『文壇があるなら見せてほしい』といふ意味のことをおっしゃいましたが、それはあるといえばあるし、ないといえばないものです。つまり責任者が誰もいない(爆)。でもないと言い切ることはできないだろうな。むしろ誰も責任を取らないところで文壇システムが曖昧に機能しているから面倒なのだと思います。
前にも書きましたが、芥川賞を受賞したいと思ったら、「文學界」を中心とする純文学誌の新人賞を受賞して私小説系の作品を書くのが一番の早道です。んでこのルートを辿る作家はけっこう大勢います。だけど最近では〝芥川賞作家止まり〟になることが多くなっている。出版側にそういう意図はないと思いますが、芥川賞作家を次々に世に送り出して、順繰りにその都度本が売れればいいといふシステムになりつつある。作家は消耗品になっているかのやうです。
でもそれってやっぱ作家にすべての責任があるわけです。中途半端な前衛小説や私小説は、たまさか賞を受賞して売れることはあっても、後が続かないことなどすぐわかりそうなものです。じゃあそういう作家は何を信じているのか。曖昧だけど〝文壇システム〟を信じ、それに従順に作品を書いてきたということになると思います。このシステムにとことん従順なら、芥川賞選考委員などの文壇の長(おさ)になれるかもしれません。でも一般読者に読まれている作家はほとんどいないんだな。あ、言い過ぎました。ごめんなさいですぅ。
■ 大篠夏彦 文芸誌時評 『No.031 文學界 2015年11月号』 ■
■ 第04回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項 ■
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