瀬戸内寂聴と「もらっといてやる」の芥川賞作家、田中慎弥が対談している。テーマは主に、私小説について、というところでいいだろう。というよりも、そこで話し合われている内容が煎じ詰めれば私小説的なものだと確認することが、これの読み方だろう。
私小説について、型通りに「三分が本当であり、七分がフィクション」といった話がされている。そこにあるのは「私小説とは何か」あるいは「なぜ私小説があるのか」といった問いをすっ飛ばした「私小説と呼ばれるものをいかに書くか」という方法論でしかない。
もとより自らの「純文学コンプレックス」とやらについて語り、デビュー作以降の文壇ジャーナリズムへの恨みを語る瀬戸内寂聴に、私小説の原理論などを期待する者などない。が、若い田中慎弥もまた結局のところ、芥川賞という制度にまつわる「我と我が身の身過ぎ世過ぎ」にしか関心はないのだと確認させられるのは、やはり寂しい気がする。
もっとも今の作家たちの中で、我が身ひとつの身過ぎ世過ぎを超えて、文学の何たるかについて関心がある者がどれだけいるのだろう。彼らにとっては「文学とは何か」といったテーマは、文壇ヒエラルキーの中で幸運にも「上がり」を踏んだ者たちが新春対談などで優雅に語るべき、「歌会始めのお歌」に近いものに過ぎまい。とすれば、このような「ぶっちゃけ身過ぎ世過ぎ対談」の方がまだしも実がある、ということになろうか。
いずれにせよ、「言葉というのはもちろん蓄積ですので、まず本を読むという行為があって、どんどん言葉をため込んでいって、それをはき出すということの繰り返しですね。それを繰り返していけば、多分ずっと書けるのではないかと思うんですが」という、田中慎弥の言葉には、すでに「作品」よりも何とか職業人としての「作家」たらんという、せせこましい自我が優先している。九十歳まで書こうの、書きなさいのという対話は所詮、そのような自我の慰め合いでしかない。
ここでは「作品」はその誰彼を「作家」として存続させるための口実でしかなく、読者とはその誰彼を「作家」と勘違いさせてくれる、人のよいボランティアでしかない。そして「文壇」や「文芸誌」や「文学賞」は、自称「作家」の身分保証をしてくれる「お上」と化している。編集者は、いまや「お上」の役所たる出版社の正社員以上でも以下でもない。課せられているのは自社組織の存続と今期のボーナスであり、文学興隆のためのしもべだなどと、誰も思ってもいない。
貧すれば鈍する、と言いたいところだが、貧した出版社は自らの組織の存続のため、作家を単なる外注ライターとして切り捨てつつある。それが「鈍」であり「恥」であるという感性はむしろ、編集者の方が作家以上の存在であるという勘違いによって塗り替えられている。だが貧して鈍しているのが作家たち自身でもあるからには、そんな勘違いも無理からぬことかもしれぬ。
理念もない、外注ライター同士の身過ぎ世過ぎ話を読まされる読者こそ、いい面の皮だ。
谷輪洋一
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