谷輪さんから『文學界』の時評を頼まれたときに、「時評する必要ないと思ったら、取り上げない月あってもいいよ。アップされている時評の本数で、その雑誌の勢いやクオリティがおのずと読者に伝わるからね」と言われた。しかし妙に律儀なところがあるので歯抜けになると気持ちが悪い。2月号には引っかかる作品がなかったが、簡単に時評しておきたい。
書き下ろし「創作」は短編が6本。辻井喬『雪の夜ばなし』は第二次世界戦争の戦争責任と戦後の日本人の生き方が主題である。この詩人作家がこのところ取り組んでいる主題だ。村田喜代子の『原子海岸』、田山朔美『窓の幽霊』は東日本大震災と福島第二原発事故という時事ネタを作品に取り入れている。多和田葉子の『鼻の虫』はこの作家得意の、少しだけ現実世界の枠組みを歪めた幻想小説。馳平啓樹の『春寒』は文學界新人賞受賞第一作で、ホモセクシュアルの鉄道マニアが主人公の私小説風作品である。
第二次世界戦争(太平洋戦争)と東日本大震災(福島第二原発事故)の責任とその後の日本人の生という問題は、何の関連もないようでどこかで繋がっている。ただ「どこでつながっているのか?」という質問への答えは、「少なくとも文学は、まだその本質を捉え切れていない」というものになるだろう。辻井、村田、田山いずれの作品でも、二次大戦や東日本大震災は単なる作品主題という域を出ていない。この程度の主題の処理なら、手を変え品を変えいくらでも作品を書けると思う。
事件はいわば「公」的なものである。大衆文学は事件の公的特質に注目し、それに駒のように振り回される人間を描くので面白可笑しい波瀾万丈の小説に仕上がる。主人公は事件で、登場人物は事件の様々な側面を体現する代弁者なのだ。しかし純文学では公的事件がいったんわたくしという「私」的な存在によって受けとめられ、それがさらに公的な認識地平に抜け出さなければならない。
坂口安吾や葛西善蔵らの私小説はそのような構造を持っている。なんらかの事件を契機に私(小説主人公)は恐ろしいほど苦悩を深め、私性の存在の輪郭は極端なまでに肥大化する。しかしほとんど世界を覆うくらいにまで肥大化した自我意識が、ある瞬間にフッと社会的意識と入り混じるのである。いわば公的事件によって私性が揺さぶられ、それがさらに公的意識に抜けるのだ。
しかし辻井、村田、田山の三作品は、単に事件を私が受けとめるというレベルに留まっている。誰にとっても現代的事件はその本質を捉えるのが難しい。彼らの作品は、そのわからなさを私の苦悩としてこじんまりと描いただけの作品なのである。彼らだけではない。3.11を作品主題として取り上げる作家は多いが、ほぼ全作品が「公→私」のレベルにあり、「公→私→公」の表現地平に届いていない。
これではプロの、正確に言えばプロ純文学作家の作品とは言えない。作品を公的に発表するという行為の前提には、作家の認識は一般的読者の上位審級にあるという暗黙の了解が存在する。しかし事件によって私が苦悩しているというレベルでは、一般人の事件に対する感想とほとんど変わらない。3.11などの事件を扱った小説では大衆小説の方がよほどレベルが高い。少なくともそれは事件の詳細な概要と問題点を読者に提起している。
多和田葉子の『鼻の虫』に対しても同様の感想を持った。多和田氏のこの手の小説は読み飽きた。次々に起こる現代的事件の衝撃性を小説主題として取り上げ、読者を飽きさせることなく楽しませる大衆文学作家と純文学作家は、いったい何が本質的に違うのかを真剣に考えた方がいい。同じ手つきで同じような認識地平をうろうろする小説を書き続ける必要は純文学作家にはない。もう表現し尽くしたと思えば、純文学などやめてしまってもいいのである。
馳平啓樹に対しては当然だが今後の作品に期待している。なにせ彼は新人なのだ。ホモセクシュアルと鉄道という組み合わせは魅力的だ。主人公とそのかつての恋人で女性と結婚しようとしている若者は、特に示し合わせたわけではないが、青春18切符を手にして列車の旅に出る。まだまだ彼らの旅は続くだろう。誰だって手の内が出尽くした既存作家たちよりも、未知の作家に大きな期待を寄せている。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■