前回の「第6回 異文化との出会い-デルフト」で書いたように、江戸期以前の日本で物からヨーロッパとの相互交流の痕跡を確認できるのは、ほぼデルフト焼きだけである。ただ文章情報をともなわない陶磁器を「読む」のは意外に難しい。日本のお茶の世界では江戸期に輸入されたヨーロッパ陶磁を「阿蘭陀」(オランダ)とひとくくりにして呼ぶが、そこにはフランスやイギリス、ドイツ、イタリア、スペイン産の陶磁器も含まれる。陶磁器は実用品であり、使い勝手は気になっても、作られた当時はほとんど誰も産地や制作年を気にかけないのである。ごくまれに高台(陶磁器の底の部分)や保存箱に年号が書かれた物が、後になって生産地や制作年代、様式などの指標作となる。
だいぶ前に入手した小さな盃がある。生産地はデルフトだが、製作目的や用途などは判然としない。最初に見た時から特殊な作例であることはわかっていた。李朝の耳盃の形をしていて、見込(陶磁器の内側の中央部分)にイエズス会の紋章が染付で描かれているからである。類例が皆無ということはあり得ないが、遺品は恐らく少ないだろうと思う。
イエズス会紋章入藍絵耳盃 口径8.2、耳までの大きさ10.9×高さ4センチ
見込、口辺、耳、高台
手がかりはあまりないが読み解けるだけ読んでみよう。まず見込の模様だが、イエズス会の紋章は言うまでもなく「IHS」である(【参考図版01】)。イエス・キリストのラテン語表記「Ihsouz Xristoz」の頭文字から取ったとも、ラテン語の「人類の救い主イエス」(Iesus Hominum Salvator)、あるいは「イエスは我らとともにあり」(Iesum Habemus Socium)の頭文字だという説もある。「H」の上に十字架が描かれている。キリシタン大名・高山右近の旧領にある千提寺(せんだいじ、茨城県)に伝わったザビエル像にもIHS紋は描かれている(【参考図版02】)。長い間「開かずの箱」の中に隠されていた作品で、イエズス会が設立したセミナリョで西洋画を学んだ日本人画家の手になる遺品である。歴史の教科書でご覧になった方も多いだろう。
【参考図版01】イエズス会紋章
【参考図版02】聖フランシスコ・ザビエル像
製作地と年代はデルフト(オランダ)で17世紀だとほぼ断定できる。昭和62年(1987年)に根津美術館で江戸時代から日本に伝わるヨーロッパ陶磁器だけを集めた『阿蘭陀』展が開催されたが、その中に類品があった(【参考図版03】)。カタログ解説には製作地はデルフトで時代は17世紀とある。デルフト陶の専門家・西田宏子さん(根津美術館学芸員)の鑑定なので間違いないだろう。また2つの作品は耳の部分の染付の入れ方が同じである。僕が見ても高台の土味や口辺の釉剥げなどが、デルフト陶の特徴を示していると思う。日本からの注文品かどうかはわからないが、その可能性は高い。
【参考図版03】藍絵花文双耳盃 口径7.9×高さ4.8×底径3.4センチ
形状は李朝の耳盃を真似ている(【参考図版04】)。耳盃は高麗時代末期から作例があり、その用途は祭器である。盃だけ伝わっている物が多いが、元々は皿と一体で、酒などを入れて神前に供えたのだと考えられている。耳の部分だが、デルフトでも現在のコーヒーカップのように、片方に縦に取っ手が付いた作品はある。しかし両方にある作品は確認できない。両側に取っ手が付く場合は横向きで幅広なのである。またデルフトでは陶器の見込に宗教画を描くことが盛んに行われていた(【参考図版05】)。マリア様や天使が描かれた碗や皿に食べ物を盛ったとは考えにくいので、飾るためのものか、なんらかの宗教祭祀に使用されたのだと思う。クライアントからの依頼で家紋を入れた皿なども残っている。つまり僕が入手した耳盃は、日本のイエズス会の発注で、朝鮮の耳盃の形を真似て作られた作品だと推測されるのである。
【参考図版04】李朝粉引耳盃と盃 口径8.8×高さ5センチ、盃台は径13.9センチ
【参考図版05】デルフト色絵聖母子図双耳碗 口径20×高さ5.5センチ(いずれも最大)
ただもし耳盃がイエズス会の発注だったとして、なぜ朝鮮の祭器を模した作品を作らせたのかには大きな謎が残る。朝鮮でのキリスト教布教のために作ったのだという仮説が一番説得力がありそうだが、それはあり得ない。16世紀末から17世紀初頭の朝鮮は固く国を閉ざしており、外国人が簡単に入国できる状況ではなかったのである。いわゆる鎖国である。李氏一族が治めていた朝鮮(李氏朝鮮=李朝)が鎖国に走った理由は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592~98年)と、それに引き続いて起こった満民族の勃興にある。
明王朝を討伐するので通路を開けよという秀吉の要求を拒んだ李朝は、唐突に日本軍の侵攻を受けることとなり、戦乱で国土が荒廃する辛酸を嘗めた。この災厄は慶長3年(1598年)の秀吉の死で一応の終熄を迎えるが、その後、朝鮮の北方に位置する満州族が強大な力を持つようになる。清朝の前身である後金が成立したのは1616年(元和2年)で、明朝を滅ぼして完全に中国を統一し、清朝を樹立したのが1662年(寛文2年)である。この前後の期間、大陸は大きく動揺した。朝鮮は海を隔てて日本と、国境を接して満民族の脅威に対峙しなければならなかったのである。鎖国政策は、油断のならぬ日本人と満民族を国内から排除するための方策として採られた。この政策は基本的には19世紀末の李朝の滅亡まで遵守された。
日本に残されたデルフト陶は、愛玩物として見れば、単に往事の異国趣味を伝えるだけの古い遺物である。しかしその背景は錯綜としている。日本ではザビエルが来日した室町末の天文18年(1549年)から桃山時代を経て、慶長18年(1613年)に徳川幕府によるキリスト教禁止令(バテレン追放令)が出されるまでの64年間を、「南蛮美術の時代」と呼ぶことがある(山本俊則氏の美術批評「No.012 南蛮美術の光と影」参照)。明治維新以降の近代を除いて、日本が唯一、ヨーロッパ諸国と密接な交流を持った時期である。この時期に東南アジアに進出し、植民地化の基礎を築いていたのはポルトガル、スペイン、オランダのヨーロッパ諸国だった。中でもポルトガルの進出は早く、1510年にはインドのゴアを手中に収め、そこを拠点に交易を開始していた。ザビエルはゴアから日本に向かったのである。
16世紀のヨーロッパ精神は、カソリックとプロテスタントの激しい宗教対立の中にあった。ザビエルはイグナチオ・ロヨラらとともにイエズス会を創立した7聖人の1人だが、それは腐敗したカソリックを立て直し、世界中にキリスト教を布教することを目的としていた。初期のイエズス会は軍隊のような厳しい規律を保持していたと言われる。またプロテスタントの勢力は、西ヨーロッパよりもドイツやオランダなどの東ヨーロッパで強かった。ロヨラたちはヨーロッパ本土でプロテスタントとの激しい宗教議論を闘わせながら、東ヨーロッパで布教するよりも、発見されたばかりの未踏の新世界にカソリックを布教しようと考えた。その先鋒にザビエルが立ったのである。
ザビエルは2年3ヶ月日本に滞在した。ザビエルの布教は一定の成果を収めその後の日本での布教の礎となったが、日本滞在中に、彼は中国大陸の重要性に気づいた。実際彼は、インドに戻った後、中国に入国しようとして果たせずに亡くなったのである。当時の明王朝は厳しい海禁令を敷いていて外国人の入国を容易に許さなかった。沿海州を荒らし回る和冦によって明朝の力が衰退していたのである。しかしザビエルの試みは次代の宣教師らによって引き継がれた。彼らは東アジアの盟主と言うべき中国皇帝をキリスト教に改宗させることを本気で夢見た。その夢は結局果たせなかったが、中国宮廷で活躍するマテオ・リッチらの宣教師を生んだ。またイエズス会の宣教師らはもう一つの夢を見た。それは朝鮮、当時の彼らの言葉では「高麗(カオリ)」をキリスト教化することだった。
韓国では現在、総人口の約3割をキリスト教徒が占める。フィリピンに次ぐ東アジア第2のキリスト教国である。1784年に李承薫(イ・スンフン)が初めて韓国でキリスト教を布教したといわれるが、実際にキリスト教が盛んになったのは1845年の金大健(キム・デゴン)の布教からである。日本では江戸後期から幕末に当たり、この頃には李朝の鎖国政策もだいぶ緩くなっていたのである。また李承薫の布教次時代にはイエズス会宣教師が北京から入国して布教を行っている。それ以前に彼らが韓国に入国した確実な資料はない。しかし日本でいう「南蛮美術の時代」、つまりヨーロッパ列強が東アジアに進出し始めた初期から韓国布教の素地は形作られていたのである。
イエズス会の宣教師は必ず月に一度手紙を書き、年に一度は年報を書き送ることが義務付けられていた。ゴア経由で本国に届けられたそれらの書類は、今でもヨーロッパ各地の図書館に所蔵されている。その中で高麗(朝鮮・韓国)に関する手紙を集めたものが『遙かなる高麗(カオリ)』(近藤出版社、昭和63年[1988年])にまとめられている。これを読むと韓国布教の萌芽が秀吉の文禄・慶長の役にまで遡れることがわかる。朝鮮出兵で日本軍は数千人とも言われる捕虜を日本に連れ帰った。奴隷として使役するためだった。しかし古代は別として、確固たる奴隷制度を持たなかった日本では、一定の使役期間が過ぎた朝鮮人捕虜は自由の身となった。遊郭に身売りされた遊女などと同じ扱いである。差別はあったが貴人の側近くに仕えた者もいた。
朝鮮人捕虜の多くはイエズス会が根拠地にしていた九州に居住していた。そのためもあり、彼らの多くがキリスト教に改宗した。慶長10年(1605年)には朝鮮通信使が来訪し、伏見城で徳川家康に謁見した。正式に日朝の国交が回復するのは慶長12年(07年)の来訪からだが、慶長10年の来朝時に、文禄・慶長の役で日本に連れて来られた朝鮮人捕虜の一部も通信使と一緒に帰国の途についた。その中には日本で改宗したキリスト教者が混じっていた。彼らは本国に帰国した後、細々とだがキリスト教の教えを守り、布教活動を続けたのではないかと考えられている。
身分の高い一キリシタンが対馬にいるとき、高麗生まれの身分の高いあるキリシタンが船でこの島に着いた。彼は、高麗から日本へ派遣された使節に同行して(中略)高麗へ帰るところであった。この高麗人キリシタンは(中略)支那からもたらされた教理問答を(中略)手写し続け、終に写し終わった、(中略)パドレの同行が、今は不可能であるあるゆえ、高麗において、私自身がこの本でキリストの教えを説かなければならない、と言ってそれを持っていった。
(ロドリゲス・ジラン 慶長10年[1605年] 年報)
イエズス会宣教師たちは、伝説の東方キリスト教国の君主、プレスター・ジョンを追い求めるように高麗の地での布教を熱望し続けた。しかしその願いは二百年近くかなえられなかった。ただジランの報告書は、彼らのたゆみない努力と、彼らが東アジアで見出した独自の布教方法を伝えている。ジランの言う『教理問答』は、ミゲル・ルッジィエリを中心にペドロ・ゴメス、マテオ・リッチらのイエズス会士らの協力で作成され、天正14年(1584年)にマカオで印刷されたものである。キリスト教の教義を問答形式でわかりやすくまとめた本で、ヨーロッパのラテン語と同様に、当時の東アジアの共通言語である中国語で書かれていた。印刷本は累計でも三千冊ほどだが、写本となり中国、朝鮮、日本など東アジア全域に拡がっていった。
イエズス会に遅れて布教に参加したスペイン系のドミニコ会修道士らは、本国にいる時と同様の清貧を守り、その土地固有の文化などには目もくれずに布教に当たった。しかしイエズス会は違っていた。彼らは国家や民族の特徴を注意深く観察し、その土地に合った布教方法を選択した。彼らは東アジア圏における、ほとんど文字信仰とでも言うべき本への執着をよく知っていた。古代に成立した四書五経を聖典と仰ぐ東アジアの人々は、文字が書かれた本を決して粗末にしないことを理解していたのである。四書五経に聖像(イコン)は存在せず、文字(が伝達する内容)そのものが聖なるものだからである。
イエズス会宣教師の報告によれば、慶長15年(1610年)に長崎で高麗人信徒会が設立され、日本人信徒の援助も得て、長崎で史上初めての韓国カトリック聖堂サン・ロレンゾ教会が建築された。祖国には帰らず、日本に土着した朝鮮人によって建てられた教会である。この教会は元和6年(1620年)には取り壊されるが、短期間とはいえイエズス会修道士が彼らを導いた。修道士らは『教理問答』などを朝鮮人信徒にハングル語訳させている。それらが朝鮮本国にもたらされた可能性は高い。ヨーロッパ諸国と比べて、中国や韓国との交易上の制約ははるかに緩かったからである。
骨董は物言わないが、僕が入手した耳盃は、もしかするとわずか10年間ほど存在した朝鮮人教会の祭祀用にイエズス会が発注したものかもしれない。いくら新しもの好きとはいえ、日本のお茶人がイエズス会の紋章が入った盃を注文するとは思えない。また耳盃という祭器の形を理解していたのは、恐らく一部の朝鮮人だけだろう。もちろん僕の推測には何の根拠も確証もない。徳川幕府による慶長18年(1613年)の絶対的キリスト教禁止令によって、イエズス会宣教師らがヨーロッパから輸入し、日本人信徒に作らせた大量の宗教用具のほとんどが失われ、その用途も永遠にわからなくなってしまったからである。
鶴山裕司
(写真撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
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