谷輪洋一さんの文芸誌時評『No.013 群像2015年11月号』をアップしましたぁ。谷輪さんは新人賞について、『若い新人にとって、新人賞は必要だ。ただ、その意味合いは文壇によって認知され、権威づけられるといったことから、他者に存在をアピールし、読者を獲得するきっかけとなる、というところにシフトしているようだ。他者に存在をアピールして読者が得られるなら、もちろんブログだって構わないだろう。ただ、そう思う何千人ものの中から差別化を目指すのみだ』と書いておられます。
こりは基本的には文学金魚新人賞の考え方と同じです。自由詩の世界では詩人は自分で型を作って作品を書かなくてはなりません。詩人一人一人の型が違うのです。無限の自由の中から型を選んで、自ら自由の範囲を狭めてゆく面があります。小説はどうかと言うと、こりも同じようなものです。現実問題として、まったく新しい形態の小説は書きにくいし、読者にも受け入れらません。作家は純文学を書こうと思わなければ書けないし、サスペンスであれラノベであれ、ある型を選択して書こうと決意しなければ作品は仕上がりません。
ただこの型が機能しなくなっているのですね。この型には文壇や詩壇の従来システムも含まれています。もちろん文壇・詩壇システムはそれなりに機能していますが、新人賞はほんの通過ポイントに過ぎなくなっています。いつだって社会から注目されるのはチャンスなのですが、それだけで文学者として生き延びられる、活動し続けられる可能性は昔よりうんと低くなっています。型(システム)を信じ続けそこに活路を見出すのも作家の選択でしょうし、作品であれ世界(読者)へのアピール方法であれ、今までとは異なる方法を模索するのも作家の選択です。文学金魚は後者を代表するメディアです。
谷輪さんはまた、『批評のバックグラウンドとはしかし、それを今、批評する理由なのだ。それが見えないところでいきなり「優れた批評」として提示されても、人は戸惑うだけだ』とも書いておられます。文壇でも詩壇でも批評の力は低下の一方です。特に文壇ではプロパーの文芸批評家がほとんど必要とされなくなり始めています。その理由は『批評のバックグラウンド=批評する理由』が見えないからでしょうね。まず創作者が読んで、『ああこれは役に立つ』と思えるような批評でなければ、今は一定の社会的・文学的意義を得られないでしょうね。
■ 谷輪洋一 文芸誌時評『No.013 群像2015年11月号』 ■