岡野隆さんの詩誌時評『No.025 月刊俳句界 2015年03月号』をアップしましたぁ。特集『映画人の俳句』を取り上げておられます。
村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ 渥美清
結婚は夢の続きやひな祭り 夏目雅子
奴の背中におぶさっているあの異形のもの 成田三樹夫
これらの俳句について岡野さんは、『この三人の俳優は俳句の手ほどきをまったく受けていない。ただ季語や定形をうるさく言わなければ、中途半端な手慣れのない新鮮な句だと言うこともできる。また俳優たちにとって俳句はあくまで遊びの余技であり、自らのパブリックイメージに沿った句を詠んでいることがわかる。・・・・彼らは彼らで背負っているものがあり、それは趣味で俳句を書く際も決して失われないのである』と書いておられます。
春の雪石の仏にさはり消ゆ 小津安二郎
白魚のいのちの如く灯のともり 五所平之助
ついとゆく香魚(こうぎょ)のあとのささにごり 吉村公三郎
同じく特集に収録された有名映画監督たちの俳句です。岡野さんはこれらは〝文人俳句〟だろうと書いた上で、文人俳句についてに次のように批評しておられます。
文人俳句について補足すれば、俳人だという自己認識は持っていないが、俳句文学を深く理解している作家の作品ということになる。誰でも簡単に詠める表現である以上、ある人が俳句作家だという自己認識を持ち、社会に向けて自分は俳人だと宣言するのは簡単である。・・・・文人俳句と呼ばれる作家たちがそうしないのは、簡単に言えば彼らが俳句以外の表現領域のプロであり、俳句に専念する時間がないからである。本気で取り組めば俳句文学は、一生を費やしてもほんのわずかな成果――もちろんそれは俳句文学にとっては貴重なものである――しか得られないことを知っているのである。だから他ジャンルの作家が軽い気持ちで俳句を詠んでも、それは優れた文人俳句にはならない。俳人と同等の俳句文学理解を持ちながら、なおかつ専門俳人ではない、そうならないという断念を持った作家が優れた文人俳句を詠める。
文学金魚には文学を原理的に考える作家が多いのですが、現在のように文学状況が混乱した時代ではそういった原理的思考が必要だと思います。自由詩の詩人を始めとして俳句創作や批評を試みる他ジャンルの作家は多いですが、俳句文学の根幹に届いていなければ枯れ木も山の賑わいで終わってしまふ。また俳人さんたちも俳句が国民文学であるといふ認識があるのなら、自分のところの結社員が増えることが俳句の隆盛につながるといふ思考から抜け出すべきでせうね。う~ん、文学金魚でも俳句界を変えられる作品能力と批評能力を持った俳人さんが欲しいですぅ。
■ 岡野隆 詩誌時評 『No.025 月刊俳句界 2015年03月号』 ■