鶴山裕司さんの連載エセー『続続・言葉と骨董』『第40回 渥美壺(前編)』をアップしましたぁ。渥美焼は愛知県の渥美半島一帯で作られた焼き物です。鶴山さんが書いておられるように平安時代末に創業を開始して、鎌倉時代末には生産が途絶えてしまった窯です。こういった廃絶窯には石川県の加賀焼、珠洲焼などがあります。それだけぢゃなくて、実は日本全国に火が絶えてしまった中世陶の窯が点在しています。日本人は陶器が好きなんだなぁ。
鶴山さんは『僕は未知の物に驚き、その詳細を観察して精神的背景を知りたいのだ。そういう意味で純粋なコレクターからは遠い。もちろんいつまで見ていても飽きない作品もある。書画が多いが、焼き物では愛想のない日本の陶器がほとんどである』と書いておられます。鶴山さんの文章を読めば肯ける内容ですが、かといって骨董批評のハードルが低いわけではない。骨董について書くのはむちゅかしいのでありまふ。
どこかで鶴山さんが書いておられましたが、書き手が持っている骨董を見せるのが骨董エセーの不文律です。つまり真贋を見分ける自信がなければ骨董エセーは書けない。また何を見せるのかも問われます。高価な物ばかり並べると金に飽かした権威主義的コレクションだと揶揄されることがありますし、安物ばかりだと本気ぢゃないねと侮られる。ぢゃあ何が必要かといふと、物を選ぶ人の美意識です。筋の通った美意識で物を選び、それについて書いているのが優れた骨董批評やエセーだと言えます。
骨董好きが世間から冷たい目を向けられることがあるのは、金の力で文化を所有しようとする成金的指向が入り交じることがあるからです。また骨董好きを自負していても、呆れるほど真贋を見分ける能力のない人が多いからです。どのジャンルでもその世界を知り尽くした専門家は驚くほど冷静なものです。だから僕は○○を持ってるんだと自慢しているような骨董エセーは危うい(爆)。骨董に興味があるのではなく、高価な骨董で自分を飾り立てようとする意図が透けて見える。ファッションでは僕や私が主役でいいですが、骨董エセーではあくまで骨董について書かなければならなひのでありまふ。
■ 鶴山裕司 連載エセー『続続・言葉と骨董』『第40回 渥美壺(前編)』 ■