蓮實重彦氏が映画時評を連載している。なんでかわからないけれど、ほっとした。
文芸誌には、よく映画評が掲載されている。この群像6月号の映画評も時評で、ロードショーを取り上げていることも多い。ファッション誌やカルチャー誌、週刊誌の時評は、必ずしも誉めてあるとは限らないものの、基本的にはインフォメーションだ。
文芸誌が映画評を載せるならば、ロードショーについてであったとしても、インフォメーション以外の「視点」が必要となるだろう。
アレクサンドル・ソクーロフ監督『ファウスト』について、蓮實重彦は「いつになく撮り急いでいる」と言う。「世界-現実-を『撮る』ことよりも、物語-虚構-を『語る』ことだけに神経を集中しているように思えてならない」。それはソクーロフ監督には珍しいことのようだが、それが三十年来の企画が実現したせいか、またプーチン首相 ( 当時 ) からの資金援助さえあった超大作であることと果たして無関係か、と問いかけている。
蓮實重彦の映画時評は、お手本にしたいくらい行き届いていると思う。まず「撮り急いでいる」というファースト・インプレッション。この印象は最後まで変わらず、むしろ徐々に強化され、この映画の「定義」に近いものになる。強化の過程で役者、音響処理、ショットや編集のリズムが仔細に検討される。
中でも「役者たちは、ファウスト役のヨハネス・ツァイラーも、メフィストフィレスとは呼ばれない悪魔役のアントン・アダシンスキーも、みずからの生身の存在が撮られることでフィルムの全域に緊張をみなぎらせうるとは信じていそうもなく、思い切り『演技』をしながら、虚構にふさわしくあろうと行儀よく画面におさまっている」というくだりは説得力があり、まるで見たように目に浮かぶ。つまり、見た気がしてしまうのだ。
実際のところ、映画は上映される前から始まっていると思う。作品はふさしい言語を呼び込むのだ。広告、パンフレット、そしてこのような時評。それらが整合性をもって作品の姿を伝えてくるとき、たとえ観なくとも映画評が書けてしまうくらいだ。それは「おそらくこのような映画であろう」といった予言の類いとして成り立つ。その予言が的中すれば、人は映画というものが言語世界と過不足なく呼応し、その構造のポイントを共有していると確認する。
「いきなり俯瞰となったキャメラが、二人の男女の波立てる同心円状の波紋が湖畔に音もなく拡がるさまを見すえるショットには、ソクーロフなりの署名が読みとれて思わずほっと」する蓮實氏は、文学に対してと同様に、映画への愛に満ちている。だがもしかして私たちの蓮實重彦氏への安心感は、その愛ゆえでなく、その視点が作品のすべて、またその先行作品もことごとく視野に入れ、すでに「観てしまった」感を与えるところからくるのか。実際、そういった視点から書かれる文芸誌の映画評が、ロードショーを取り上げる理由なんかあるのか、とも思う。文芸誌の発行部数からして、別に営業妨害になることもないだろうが。
水野翼
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■