谷輪洋一さんから「久しぶりに会おうよ」と電話があって出かけていったら、「お前、「文學界」の時評をやってくれないか」という話だった。文学金魚というふざけた名前と、それには似つかわしくない高邁(?)な理念はその時初めて谷輪さんから聞いた。場所は日本橋の鰻屋の座敷で、谷輪さんのおごりで酒を飲んだ。〆は鰻重の松だった。「鰻屋で口説かれるなんて、「文學界」らしいだろ。やってくれよ」と谷輪さんに迫られて、「じゃあ数回だけ」と言ってしまった。女中さんが持ってきたおあいその額を見て、引き受けないと悪いと思ったのである。谷輪さんにはめられたようなものだ。
家に帰って文学金魚をパソコンで検索すると、齋藤都氏が「文學界」の総評をアップしていた。齋藤氏は「極論すれば、「文壇」とは文學界のことだともいえる」のであり、「その本質は「私性」にある」と書いている。「文學界の版元である文藝春秋社が「純文学」作家の登竜門といわれる芥川賞を主催し、その自社ビルに作家たちのユニオンである日本文藝家協会が入っている」ことが「文學界」が「文壇」である理由の一つだとも。よく言うぜと思ったが、その通りではある。公明党の支持母体が創価学会だというくらい自明のことだ。でも本当のことを言う人は少ない。ようやくやってみようという気になった。
どの文芸誌にも特色がある。しかし「文學界」のカルチャーは他誌に比べても強いと思う。今月号でいえば、磯崎憲一郎氏の『過去の話』が最も「文學界」らしい小説ということになるだろう。『過去の話』は30枚ほどの短編小説である。括弧でくくられた会話は一切なく、すべてが主人公の独白である(いわゆる小説の地の部分に、主人公と他者の会話が含まれるわけだ)。「文学界」的小説は30枚から50枚くらいが上限なのである。それ以上書くとだれる。作品の主題はタイトル通り『過去の話』である。ストーリーなどありはしない。これは物語を読ませる「小説」ではなく「私小説」なのだ。
作品の冒頭に「どんな場面を設定しても良いのだが、(中略)その人が見えなくなるまで、視界から完全に消え去るまではその場を立ち去ることができない、という人たちがいる。私の母がそうだった」と書かれている。この数行で主題は語り尽くされている。どんな場面でもいいから過去を振り返ること、じっとそれを見つめること、その光景を最初に主人公に植え付けたのが母親である以上、物語は母の記憶で終わりを迎えなければならないということである。
すぐに主人公の視線は過去へと向かう。恋人に振られたこと、失恋の痛手を癒すために京都に小旅行に行ったこと、社会人となりハワイに出張に行った時の記憶、ドバイの高級ホテルに泊まった時の思い出などである。必ずしも時系列を追って記述されるわけではなく、それらの記憶(過去)が錯綜しながら語られていく。初めてこういった小説を読む人には新鮮で、また難解であるかもしれないが、そんなことはない。これは私小説の常套的な書き方なのだ。むしろ記憶をランダムに繋ぎ合わせてどこまで作家の心理の揺れを描けるかが、この書き方の正念場ということになる。
小説はラストで、母の元へ、冒頭の少年時代へと戻る。主人公は母親と運送屋が配達してくれるはずの本棚を待っている。だがなかなか荷物は届かない。待ち疲れた主人公と母親は昼寝してしまう。目覚めると「壁際の新聞紙の上には大人の背丈ほどもあり、チーク材で組まれた立派な本棚が置かれていた」という記述で小説は終わる。過去の記憶は肝心なところが抜け落ちているということの暗喩と受け取ってもいいし、本棚のようにどっしりとそこにあると解釈してもいい。あるいは意味はないという読解も可能である。作品ではただ過去が語られる。その心象の言語的叙述が見事であればあるほど、それは私小説の秀作ということになる。それだけのことだ。
作家の磯崎氏は三井物産に勤めながら、苦労して小説を書き続けている方である。決して『過去の話』のような私小説ばかりを書く作家ではない。ただ「文學界」からの依頼と枚数の制限が、このような小説を書かせるのである。磯崎氏だけではなく、他の作家も同様の小説を「文學界」に発表している。筋金入りの私小説作家といえるのは、今月号の冒頭に「新春特別随筆」を執筆している古井由吉と車谷長吉氏くらいのものだろう。なぜ「文學界」がこのような無益な小説をやたらと作家たちに書かせたがるのかはわからない。しかしそれがいわゆる文壇のルールといったものなのだろうと思う。私小説を書けば芥川賞はぐっと近づく。
言い添えておけば、私小説が悪いといっているわけではない。むしろ私小説だけが小説のていをなしていることが問題なのだ。急速に変わりつつある社会に背を向けて「わたくし」の内面に沈降すれば、それなりの小説が書けてしまう。だが一歩踏み出して他者と社会に向き合うと、男たちの小説はワードショーなみの凡庸な感性と知性しか表現できない。「文學界」が私小説にこだわるのは、まさかそのためではないとは思うが。
だから今月号に掲載された、2004年に芥川賞を同時受賞した綿矢りさと金原ひとみ氏の「特別対談」にはちょっと期待した。楽しい大喧嘩でも起こしてくれるのではないかと。しかし肩すかしを食わされた。金原氏の方が終始綿矢氏に気を遣っている雰囲気だった。あれでは文学同人誌の創作合評での誉め合いと変わらない。ただまったく異なる資質なのに、妙な巡り合わせから大人の都合で二人セットにされてしまったことへの反発というなら理解できる。繊細なまでにお互いの傷口に触れないように繰り出される二人の言葉は、もし深読みする気があるならスリリングなものだろう。少なくとも中身のない私小説よりは。
どのジャンルでも女性の力が強い。今号の「文學界」でも、「文學界」のクリシェを外そうと奮闘しているのは朝吹真理子、青山七恵、伊藤比呂美という女性作家たちだった。男たちの抽象観念ではもはや現代は捉えられず、飯を作り子供を産む女性たちの危機感だけが切迫感を持つということか。社会的には女性蔑視と指弾されるかもしれないが、現代文学では女性性は明確なアドバンテージだと思う。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■