椎名誠の「かいじゅうたちがやってきた」が最終回である。最終回ということは、話のオチがつくということだ。が、このオチを意図的に避けるというのは、むしろフィクションの場合に顕著なようだ。
古井由吉がエッセイズムということを提唱し、同じ頃にエクリチュール・フェミニンということも言われて、それは構造的な物語に対するアンチテーゼだった。ポスト・モダン文学論の流れを受けていたことは、言うまでもない。
日本において、物語の構造性はいつも国外からもたらされて来た。源氏物語の下敷きは中国の故事であり、明治時代に築かれた近代文学の楚は夏目漱石のイギリス留学によるものだった。日本文学生粋の「国技」と言うべきジャンルはむしろ随筆であり、随筆に込められる「私性」に拡張を許すものとして「私小説」を中心とする「純文学」が成立した、と考えられるだろう。
エッセイズムというのは、そのような「純文学」の出自をあらためて確認しよう、という話だったように思う。またエクリチュール・フェミニンというのは、女性の書くものにかぎった話ではなく、物語構造を確立したものが近代的自我と同一視される男性原理であるとして、それへの疑義申し立てということだろう。ただ、それは常に物語を破壊する側にまわるばかりではない。
壊されるべき物語は、陳腐化したいわば物語の形骸であって、それを破壊することで、また新たな物語=世界認識の方法が立ち上がってくる。少なくとも、そのような可能性が覗くことが期待される。
「かいじゅうたちがやってきた」ではエッセイか小説か、判断に迷うような書き方を、たぶん意図的に選択されている、おそらくは小説である。三人の孫たちがやってきて、そのいわゆるギャングぶりが淡々と描かれているだけで、フィクションであることを明示する指標のようなものはない。実際、エッセイとして読まれたところで、特に支障はないのだ。
そこに思い至ると、通常はいかに小説が小説たらんという意志を持ち、その意志の力学によって成立しているものかということに気づく。ほんのわずか、ほとんど作者自身にしか関わりのない程度に主人公が作者自身からずれ、その持ち上がった分を抑え込むようにして、ほとんどエッセイ、ぎりぎり小説、だが問われれば小説であるというアリバイはあるという作品が、この「かいじゅうたちがやってきた」であるようだ。
そこに三人の子供たちの行為の断片がちりばめられている、というのがつまるところ、この場合の重要なポイントだろう。子供というのはやること為すこと支離滅裂なもので、したがって陳腐化された行為のコードを壊す動物だからだ。
そして最終回は、何のオチもなく終わる。盛り上がりもないまま、孫たちはいつのまにか帰る。が、それが「子供」である以上は、いつでも次の物語が発生する契機になり得る存在なのである。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■