【公演情報】
公演名 市川海老蔵第三回自主公演 ABKAI 2015
会場 渋谷シアターコクーン
公演期間 6月4日~21日
鑑賞日 6月9日
演目 一、新作歌舞伎「竜宮物語」
二、新作歌舞伎「桃太郎鬼ヶ島外伝」
脚本 宮沢章夫
演出 宮本亜門
振付 藤間勘十郎
出演 市川海老蔵
市川右近
片岡市蔵
市川九團次
大谷廣松
市川右之助 他多数
浄瑠璃 竹本蔵太夫 竹本司太夫
三味線 鶴澤慎治 鶴澤翔也
長唄 日吉小間蔵 芳村金四郎 杵屋正一郎
日吉小八郎 吉住小碌
三味線 杵屋勝松 松永忠一郎 杵屋弥宏次 今藤龍市郎
稀音家一郎 松永直矢 杵屋勝国悠 他
今年で第3回目を迎えた市川海老蔵の自主公演ABKAIでは、2013年の『はなさかじいさん』に続き、再び日本の昔話を素材にした新作歌舞伎が上演された。今回の公演は『うらしまたろう』と『ももたろう』を基にした『竜宮物語』と『桃太郎鬼ヶ島外伝』の二作で構成され、脚本は劇作家の宮沢章夫が担当し、演出は宮本亜門がつとめた。
昔話に題材を求めると言っても、『竜宮物語』と『桃太郎鬼ヶ島外伝』は歌舞伎として上演されるために書き下ろされた。しかも現代に生きる人の感性や考え方を映し出すように制作された物語で、意欲的な作品になっている。その趣向を示す一例として、前回の『はなさかじいさん』と今回の二作をつなぐ「鬼石」という共通のモチーフがある。「鬼石」は宇宙から落ちてきた不思議な力を持つ隕石であり、ABKAIの新作歌舞伎シリーズの全ての物語を展開させるきっかけとなる。遊び心に満ちたSF的な設定だが、言われてみると「鬼石」の存在は確かに現代人も納得できるような枠組みを作っている。
『竜宮物語』では、鬼石の落下により被害を受けた海底の竜宮城に、三匹の亀に連れられた浦島太郎がやってくる。竜宮城の主である乙姫は、地上から来た男性の心臓を自分の命の源にし、それを糧に自分も竜宮城も生き永らえているのだが、なぜか何の欲も示さない浦島太郎を気に入ってしまう。しかし宴の後に眠りについた浦島太郎の寝顔を見ると、竜女としての本性が出て彼に襲いかかろうとする。その時、竜宮城に辿り付いた鬼石の霊が現れ、乙姫を止める。自分の心に素直であるようにと戒められた乙姫は、初めて「人を好く」ようになった自分の気持ちに気づき、浦島太郎を地上の世界へ帰すことにする。それは竜宮城の滅亡を意味するが、乙姫の決心は固く、浦島太郎を見送った後、彼女の姿も竜宮城も消える。
海辺に帰った浦島太郎は、以前住んでいた家の痕跡すら見つけ出すことができない。彼に残されたのは乙姫との別れを惜しんで彼女から授かった玉手箱だけである。それを開けるが中身は空っぽである。何もない状態でもこの世界に生きていかねばならないと悟り立ち上がる浦島太郎の姿は、『竜宮物語』の意外な終わり方だった。つまり『竜宮物語』は昔話の『うらしまたろう』に沿ってはいるが、一般に知られている物語の悲しい結末を覆すような解釈を打ち出し、そこに現代に生きる人々に対するメッセージを籠めているのである。
『桃太郎鬼ヶ島外伝』も、昔話の『ももたろう』とは違う側面から描かれる。物語は鬼ヶ島に住んでいる鬼たちの視点から語られるのだ。五人の鬼たちとおばば鬼は、桃太郎という名の英雄が鬼を退治しに来るという噂に怯えながら毎日を過ごしている。彼らは桃太郎が来たらどうすればいいかについて争いはじめる。おばば鬼は鬼たちに、島の守り神として祭られている鬼石を拝むよう命じるが、その石こそが鬼たちが争い合う原因であると気づいた赤鬼は、鬼石を海へ投げ捨てて島から去って行く。しばらくして、島に残された鬼たちがつい酒盛りをしてしまった真っ最中に、桃太郎とその仲間たちが鬼退治にやってくる。鬼たちと人間の激しい争いが始まる。島を離れていた赤鬼も戻ってきて、自分たちの住処である鬼ヶ島を守ると告げ人間に立ち向かう。舞台上で激戦が展開している間に一旦幕が下りる。再び幕が上ると舞台に座っているのは鬼たちの幽霊で、敗者である自分たちを笑いながら歌を歌い踊る。
『ももたろう』のパロディーとして構成された『桃太郎鬼ヶ島外伝』は、今日本にいる人が敏感に反応してしまう政治的な論争をほのめかしているようだ。しかし舞台の見どころは個性的な五人の鬼たちである。観客は鬼たちが見聞きし体験した物語を見せられて、彼らを可哀そうに思ってしまう。その転換自体がこの演目の面白さを生み出している。
この公演を企画した市川海老蔵は、『竜宮物語』では妖艶で強い存在感を放つ乙姫を演じ、『桃太郎鬼ヶ島外伝』では赤鬼を演じた。全く異なる演技を求められる二つの役柄に挑んだわけだが、役者の演技以外にも長唄や義太夫語りがあり、新作歌舞伎でありながら古典的な雰囲気も少し味わえた。また会場全体を飛び回るCGアニメーションの使用は、案外歌舞伎のスペクタクル性と似通っている部分があり、新鮮な効果があった。
今回の公演では、観客は確かに普段とは違う視点から展開する物語や、公演の視覚的な面白さに心を踊らされたと思う。しかし問題は、この舞台全体が歌舞伎の形式に適っているかどうかである。新作歌舞伎に挑む時は、歌舞伎の真髄とは何であるかを問い直す必要がある。江戸時代の町人が好んでいたような、不条理な運命の働きを見せる物語、人をぞっとさせるような物語、または観客を涙させ感動させる、義理と人情の間に引き裂かれる人物たちの物語が歌舞伎の最大の見どころなのかと考えてみれば、そうでもない。印象的な物語は他の舞台芸術にもある。
江戸時代から現在まで観客を感動させ続けているのは、やはり役者たちが舞台上で見せる素晴らしい技術だろう。「技」と書いて「わざ」と読むこの言葉は、日本の全ての伝統芸能に共通する根本的なものを指す。稽古によって完璧に身につけた技術の上に役者が加える工夫は感動を呼び起こし、観客の印象に残る。優雅な踊りや、役者の身体を限界まで使う争いの場面、または緊張感に溢れた雰囲気で切った見得などは、歌舞伎でしか味わえない身体的な技術の素晴らしさである。観客席を包み込むようなエネルギーを発揮する歌舞伎役者の情熱こそが観客の心に伝わり、魔法のように人の心を甦らせる効果があるのだ。
しかし本公演は、ストーリーの面白さや、歌舞伎ではない要素に頼りすぎていたようだ。果たして歌舞伎と呼べるのかという疑問がかすかに残る。とは言っても公演全体としては遊び心があり、「重い」と感じるような要素はなかった。子どもも大人も十分に楽しめただろう。だが「自由に遊びたい」という軽い気持ちだけで創られた作品は印象に残らない。創る側も観る側も、印象に残らない作品で満足していいはずはない。もう一押し、歌舞伎ならではの情熱に溢れる役者の演技がもっと見たかったように思う。
ラモーナ ツァラヌ
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■