鶴山裕司さんの連載エセー『続続・言葉と骨董』『第033回 【祝!北陸新幹線開通】南桂子賛(後編)』をアップしましたぁ。鶴山さんは、「南の作品は、作家の精神が生み出したイリュージョン世界である。この世界に強いリアリティを与えているのは孤独である。わたしたちが少女趣味のメルヘン画と言いかけて、いや、違うと考えるのはそのためである。・・・この孤独な作家にも時折寄り添ってくれる存在がいる。・・・それはかけがえのない一人の他者として表現される。しかし二つの存在が交わり合い融合することはない。存在の孤独を理解し得る者同士が、ひっそりとたたずんでいるのである」と批評しておられます。その通りでせうねぇ。
南さんは生前、まったく無名の画家ではありませんでした。かといって有名画家でもなかった。はっきり言えば浜口陽三さんの奥さんで、旦那さんにエッチングを習って可愛らしい作品を作ってる人といふ評価が一般的でした。現在、世界的陶芸家として知られるルーシー・リーの作品が、生前はお金持ちの陶芸好きが作っている趣味的作品と捉えられていたのと似ています。それが没後、じょじょに評価が上がってきた。現代では生前全く無名の作家が、死語に突然評価が上がるといふことは少なくなってきています。しかし生きているうちに正確な評価を得られる作家はまだまだ少ないようです。でもそれは文学者にも言えるかな(爆)。
不肖・石川が見ていると、文学者もだいたい50代くらいになると明確に地力の差が出てきます。この〝地力〟といふのは作家が持っている可能性のことです。50代くらいになると、もうこの作家には新しい可能性・展開がないな、この作家はむしろ全盛期に入ったな、まだまだ未知の表現可能性を持っているな、といふことがはっきりわかります。今のような時代、特に純文学の世界では、既存メディアによる文学者の一般的評価など当てにならない。文学金魚のようなベンチャーをやっていると、そういふ〝地力〟の差がよーく見えるんですね。文学金魚、人脈や社会的しがらみに影響されないインディペンデントですから(爆)。
文学金魚では、そういった〝地力〟のあるお兄さん、お姉さん作家に注目しております。過渡期の文学界に新しい道筋を付けられる作家がいるとすれば、それは過去と未来を見据えることができる優れた中堅作家たちでせうね。鶴山さんは瀧口修造について、「ほとんど意固地とも呼べる姿勢(信念)でジャーナリズムから距離を置いた・・・が、驚くほど旺盛に仕事をした。・・・また彼は極端な観念論者だった」と書いておられますが、誰かさんそっくりだなぁ(爆)。文学金魚にとってはラッキーなことなんですけんど。文学金魚は信念のある作家が好きなのでありまふ。
■ 鶴山裕司 連載エセー『続続・言葉と骨董』『第033回 【祝!北陸新幹線開通】南桂子賛(後編)』 ■