李朝雲鶴柘榴大極螺鈿統営盤(著者蔵)
前回、日本の瀬戸地方(現・愛知県)で焼かれた「大福文字の瀬戸石皿」について書いた。庶民が生活の中で使っていた道具で、そういった日用品を骨董の世界では〝民芸〟と総称する。前回も書いたが民芸の歴史は新しく、大正時代に思想家・美術家の柳宗悦が提唱した。宗悦は戦後に至るまで民芸の実践的指導者兼擁護者、それに理論的リーダーとして活躍したが、民芸というジャンル(概念)が世の中に広まったのはもちろん彼一人の功績ではない。
宗悦はよく知られているように文芸誌「白樺」の同人である。「白樺」は日露戦争から第一次世界大戦後あたりまでの、いわゆる大正デモクラシーを代表する文芸同人誌である。この時代の日本は比較的安定しており、芸術の世界でもまだ自由な表現が可能だった。美術にも強い関心を寄せた集団で、ロダンの彫刻やウイリアム・ブレイクの銅版画を日本で本格的に紹介したのは「白樺」である。「白樺」の美術重視の姿勢は表紙画を岸田劉生、梅原龍三郎、中川一政らが描いていることからもわかる。「白樺」派で美術と言うとすぐに宗悦の名前が思い浮かぶが、武者小路実篤、志賀直哉らも熱心な美術愛好家だった。
ただ中でも宗悦が美術に対するずば抜けた洞察力を持っていたのは確かで、彼の周りには次第に「白樺」の読者を中心とする理解者が集まるようになった。その中に浅川伯 教と巧兄弟がいた。朝鮮の美術に魅せられた兄弟で、実際に朝鮮に住んで陶器や木工品の蒐集と研究にいそしんだ。宗悦が朝鮮美術の素晴らしさに目覚めたのは、伯教から贈られた一個の壺がきっかけだと言われる。
【参考図版】青花草花文面取壺
高さ十二・八×口径十一・八センチ 朝鮮時代 十八世紀前半 日本民藝館蔵
「白樺」は文通を通してロダンから彫刻を贈られていた。それを見せてもらうために大正三年(一九一四年)に伯教が宗悦の自宅を訪問した際に、手土産として持参したのが写真の壺である。この壺は残闕である。朝鮮では葫蘆瓶と呼ばれる徳利で、本来は上の方が瓢箪のような丸い形をしている。上部が割れてしまったので、それを綺麗に削り取って(骨董用語で「擦り切り」と言う)現在のような姿にしたのである。骨董に関心のない方は呆れるだろうが、この壺、完品なら市場で一億円近い値が付くかもしれない。いくらでもありそうだが類品はほとんどないのだ。当時は安く入手できたのだろうが、伯教はこれ以上ない李朝白磁入門品を贈り、宗悦は的確にその価値を見抜いたのである。
浅川伯教・巧兄弟については、手軽な評伝では高崎宗司氏の『朝鮮の土となった日本人 浅川巧の生涯』(草風社刊)がある。また巧の生涯を江宮隆之氏が『白磁の人』(河出文庫)という小説に書き、それが原作になって日韓共同制作映画『道~白磁の人~』(高橋伴明監督)が作られた。民芸や朝鮮美術評価に関する宗悦の功績は揺るぎないものだが、出る杭は打たれるというか、民芸界で王様のように君臨し続けた宗悦の功罪は探せばいくらでもあるので、近頃では浅川兄弟の業績評価が急速に高まっている。最近(平成二十三年[二〇一一年])では大阪市立東洋陶磁美術館が主体となり、『特別展 浅川巧生誕120年記念 浅川伯教 巧兄弟の心と眼――朝鮮時代の美』が開催された。
浅川兄弟は山梨の人である。実家は農業と紺屋を営む素封家だが、祖父は蕉門の俳句の宗匠で蕪庵四友を称した。父親が早世したこともあり兄弟は文人気質の祖父に育てられその影響を強く受けた。兄・伯教は山梨師範学校を出て教師になった。彫刻家を目指して新海竹太郎門下となり作品が第二回帝国美術院展覧会に入選したこともあるが、派閥争いに嫌気が差して彫刻界から去った。最初に朝鮮に渡ったのは伯教である。韓国併合(明治四十三年[一九一〇年])から間もない大正二年(一九一三年)のことだった。渡韓以前から朝鮮美術に興味を持っていたが、当時の多くの若者と同様、朝鮮で一山当てたいという野望もあったのだろうと思う。
巧は伯教より七歳年下で、早く手に職をつけた方がいいという兄の勧めで農林学校を卒業して林業技手になった。巧もまた兄を追うように大正三年(一九一四年)に朝鮮に渡った。伯教は教師、巧は森林技手として働いたのである。兄弟はクリスチャンだった。巧は朝鮮に渡ると熱心に朝鮮語を勉強し始めた。宣教師が外国に布教に行くと、まずその国の言葉を習得したことに倣ったようである。ただ巧の朝鮮理解というか朝鮮愛は言葉だけに留まらず、日本人町ではなく朝鮮人町に住み、服も食事も朝鮮風を取り入れた。朝鮮滞在は長いが伯教は朝鮮語を話せなかった。朝鮮美術に魅了された柳らも同様である。
日帝時代の日本の行為は現在から振り返っても辛い。日本人と朝鮮人は支配者と被支配者(差別者と被差別者)の関係であり、当時朝鮮に滞在した日本人で脛に傷を持たない者はほぼいないだろう。浅川兄弟も広い意味では朝鮮総督府の職員だった。ただ当時一般的だった朝鮮人蔑視の姿勢はこの兄弟にはなかった。特に巧は朝鮮人の中に溶け込み彼らから愛された。巧は朝鮮語を習得したが布教には興味がなく、クリスチャン的な精神で周囲の貧しい朝鮮人たちを援助した。巧は昭和六年(一九三一年)に満四十歳で夭折するが、葬儀には棺を担ぎたいという朝鮮人が詰めかけた。浅川兄弟が注目される理由には日本人にとって後ろ暗い日帝時代において、彼らの存在が一縷の救いになっているからでもある。
彼が死んで早くも三年の月日が流れた。(中略)彼のことを想ふと今も胸が迫る。彼はかけがえのない人であつた。とりわけ私には彼が「徳」そのものゝ存在として残る。何よりも人間として彼は立派であったと思ふ。(中略)彼の存在はいつも彼の四囲を温め又澄んだものにさせた。彼を知る凡ての者は、例外なく彼を愛した。彼の心には不思議な力があつた。
(柳宗悦「浅川のこと」)
それにつけても君の愛弟浅川巧君が若くして死んだのは、惜しみて余りある痛恨事である。(中略)伯教君は中々優れた直感力は持って居るけれども、もし巧君が生きて居て伯教君の経験を纏めることができたならば、李朝陶磁ばかりでなく、朝鮮工芸はしっかりした学問的文献を残し得たらうと思って、長息大を禁じ得ない。
(安倍能成「李朝陶磁篇に寄す」)
柳と安倍能成が浅川兄弟について書いた文章である。能成は漱石門下の哲学者で朝鮮に十数年滞在し、その間に浅川兄弟と親しく交わった。宗悦の文章は巧が非常に魅力溢れる人だったことを伝えている。宗悦は先に伯教と知り合ったが、本当に懇意になり、晩年まで人間的規範としたのは巧の方だった。宗悦が人格者でなかったわけではないが、生まれつきの坊ちゃんで生粋の作家であった彼に、巧のような「徳」は求めようがなかった。
能成は宗悦追悼文で、「柳君のように我がままで、自分に随従するか自分を尊敬するものかでなければ容れられぬ人物にとって、朝鮮の工芸を通じて朝鮮と朝鮮人を愛し得たのは、幸福だったといえるかもしれない」(「柳宗悦君を惜しむ」)と書いている。様々な文学者(文人)グループに見られることだが、巧の穏和な人柄が個性の強い作家たちを結び付けていたのである。
「李朝陶磁篇に寄す」は伯教の著書『李朝陶磁』出版時に書かれた文章で、能成は文章においては伯教よりも巧の方が優っていると書いた。伯教は剣呑なところのある人だったようだが、能成は意地悪でこんな文章を書いたわけではない。むしろその評価は正確である。現在各地の美術館に収蔵されている伯教旧蔵品を見れば、彼が希代の目利きだったことがわかる。骨董は最初はたいてい誰も見向きもしない古い物であり、ある日誰かがその美しさ、面白さを発見して価格が高騰してゆく。骨董好きは多いが新たな美を発見できる目利きはほんの少ししかいない。
ただ伯教は文章は不得意だったようだ。それは伯教の著作を読めばすぐわかることである。直観的総論は正しいのだが論証になると途端に甘くなってしまう。本筋は合っているのだから細かい所はいいだろうという感じなのだ。確かに伯教の直観力と巧の文章力が組み合わさっていれば、もっと多くの優れた李朝美術研究がわたしたちに残されていただろう。(後編に続く)
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
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