小原眞紀子さんの『BOOKレビュー 評論・エセー』『No.001 『下半身の論理学』 三浦俊彦著』をアップしましたぁ。『下半身の論理学』は日本が誇る世界的特殊作家、三浦俊彦センセの最新刊評論集です。Amazonに版元・青土社さんが掲載した内容紹介には、「異彩の哲学者が男と女の「本音」を徹底分析!分析哲学を武器にして本当の性の自由を追求し、ついには最悪最凶のシモネタの次元に突入していく…。最も白黒つけにくいテーマに白黒つける、前代未聞のロジカル・シンキング実践編!」とあります。文学金魚連載の『偏態パズル』をお読みの皆様にはなんとなく想像がつきますよね(爆)。
小原さんは、「奇書である。しかし最大限の賛辞をもっての。ならば奇書とは何か、という定義から始まらなくてはならない。・・・それはテーマと呼ばれるものの存在で、著者の価値観の中心的なあり方に関わる。奇書とは、テーマそのものが奇であると言うより、テーマと著者との関わり方、その距離感に独特のずれがあるものと言える。何からずれているのかはたいした問題ではない。それこそ通常の感覚から、と言うしかないし、それよりも何故にずれているのか、ということの方が興味深い。それがわかれば、何からずれているかも自ずからわかる」と書いておられます。『下半身の論理学』については必要十分な概論だなぁ。
『下半身の論理学』は、簡単に言えば「男は結婚するなら処女を選ぶ」という命題の論理的思考冒険です。小原さんはそれについて、「最重要キーワードとは、「男は結局、処女を選ぶ」の証明に潜んでいる、さりげない条件付けの一言「高スペックの男」だ。・・・判断の主体であるはずの男もまた、スペックによって価値付けされ、そのことを甘んじて受け入れている、ということが大前提なのである。・・・人は結局、自分に似たものしか理解できず、自分に似たものを肯定しがちだ、ということだ。・・・「高スペック」な男は・・・きっと処女並みにピュアな存在として自己をイメージしているに違いない。では、その「スペック」は果たして誰が規定したのか。この問いの答えは自明だが、解いたところで存在の謎そのものが消えてなくなるわけではない。それこそが筋金入りの文学だ。私たちを魅了してやまない三浦文学は永遠に不滅なのである」と批評しておられます。
う~ん面白いなぁ。不肖・石川、三浦センセと小原さんの、朝まで『下半身の論理学』激論を企画しやうかしら。三浦センセの守備範囲は広いですから、人はなぜサプリメントを飲むのか、なぜミミズは素晴らしいのか、ウーロン茶蒐集道など、いろんなテーマの激論対談が企画できさうです。問題はカップリング相手だなぁ。三浦先生の古いお友だちで、文学金魚で『贄の王』を連載中の遠藤徹さんなら、「サプリメントと有機農業」といふテーマで激論対談を企画できるかもですぅ(爆)。
■ 小原眞紀子 『BOOKレビュー 評論・エセー』『No.001 『下半身の論理学』 三浦俊彦著』 ■