谷輪洋一さんの文芸誌時評『No.011 文藝 2014年(冬号)』をアップしましたぁ。「デュラス生誕100年」の特集が組まれていますが、「どこだ、と目次を探してしまった。そのぐらい目立たない」と谷輪さんは書いておられます。理由は「この号がたまたま文藝賞の発表に当たったということもあるだろう。・・・年四回しか出ない季刊雑誌にとって年一度の新人賞の発表は、それを中心に一年が巡るイベントにせざるを得ない」(谷輪)からかもしれませんな。
みなさん文芸誌ってあんまり読みませんよね。でも新人賞には応募なさる(爆)。その場合、受験や就職の時のようにマーケティグをなさいますか?。あんまりしてない方が多いんぢゃなかろか。文学金魚の文芸誌時評を読めばおぼろげにわかると思いますが、各文芸誌には固有のカラーがあります。優れた作品なら受賞できるというのは一面の真理ですが、作品の評価は常に相対的なのも事実です。同じ作品を片っ端から新人賞に投稿してみればわかります。まったく引っかからない場合もあるし、一次、二次まで齣を進めることもある。雑誌のカラーに合っているか合っていないかで残ったり落ちたりするわけです。
んでも文芸誌が新人賞を中心に回っているのもある程度本当です。売上げの多くを新人賞応募者、作家志望者に期待しているところがある。でもたいていの文芸誌・詩誌は定価1000円を超えるわけで、作家志望者といっても、それだけのお金があれば普通は文庫本とかを買います(爆)。作家志望者は新人賞を受賞して作品を掲載したいとは思うけど、毎月出ている文芸誌はあまり参考にならなひ、といふものまた一面の真理でせうね。
谷輪さんは「文芸誌が発行されるのは、そのカルチャーに属する人々のコミュニティの中心になるためではなく、その人々を教育するためでも、厳密にはない。ただ、自身の信じる文化の最高レベルのものを黙って示すためのものだ、と思う。ただ、そこには「文化は高い方から低い方へ流れるはずだ」という確信がなければならない。その確信、信念は誌面からひしひしと伝わるものである」と批評しておられます。その通り。でも文芸誌を開いても〝信念〟が〝ひしひし〟とは伝わってこない。純文学界の低迷は作家だけのせひぢゃないですね。
■ 谷輪洋一 文芸誌時評『No.011 文藝 2014年(冬号)』 ■