岡野隆さんの俳句評論『唐門会所蔵作品』『No.019 自筆原稿『句篇』その④―『句篇(四)-巨霊-』』をアップしましたぁ。岡野さんは安井さん自身の言葉を引用しながら、『安井氏の詩的言語は夢想言語である。それは作品内で〈変〉を起こす。俳句という逃れがたい形式内において、夢想言語がほとんど制約のない自由な表現を可能にするのである』と書いておられます。
ただ安井さんの探究はそこにとどまりません。安井さんは『「〈変〉の世界から」、さらに「ある超越的世界へと突き出ることを願」うのである。・・・〈変〉の上位審級に措定される以上、絶対言語がもたらすのは〈静〉の作品世界であるはずである。またこの〈静〉の作品世界を主宰するのは・・・「新しいアニミズムの意志・汎生命的なもの」・・・である。・・・つまり安井氏が目指す究極の作品世界は・・・作家の自我意識によって統御される世界ではない。有機的な秩序・・・が、絶対法則に従って繁殖してゆく言語世界である』と岡野さんは論じておられます。この理解を元に岡野さんは句集『句篇』を読み解いておられます。
汝が手にたためば御布施や黒揚羽
拾い骨とて接げば痩犬草あらし
色蛇に石嚥ませてはみがく夢
といった句は、『恐らく最も難解な作品-すなわち「夢想言語」によって自在に書かれた』安井さんの俳句です。
春御空手のひらのみの供え物
万物は去りゆけどまた青物屋
睡蓮や今世(こんぜ)をすぎて湯の上に
などの句は、『句集『句篇』の中で最も〈静〉を感じさせる作品で・・・その絶対言語世界を示唆しているはず』といふことになります。
見事な読解だと思います。ようやく安井文学を真正面から読み解くための認識基盤が出来上がったのではないでしょうか。また岡野さんのコンテンツはかなり専門的な内容ですが、安井さんのことを知らない読者でも、読み終わった後にそれなりに安井文学を理解できるように書かれていると思います。
不肖・石川、俳壇・文壇を問わず、インサイダーを対象読者とした雰囲気(アトモスフィア)批評は絶対ダメと口を酸っぱくして言ってきました。文学の世界に限らず専門的な事柄を説明するのは難しいものであります。しかし最低限でも、なぜ難しい内容になるのか読者が理解できない批評は失格であります。
今日アップした岡野さんのコンテンツは400字詰め原稿用紙約7枚です。この枚数で的確な批評を書くためには認識系の転換が必要です。厳しいことを言えば、一般読者が決して手に取らない、また読んでも理解できない、詩壇インサイダー的ぬるま湯意識を抜ける必要があります。作家は社会に向けて作品を発表するわけですが、誰もが当初は一般社会を想定していたはずです。社会が狭い詩壇・文壇にすり替わってしまった時点で、自ずから作家の進歩は止まります。
■ 岡野隆 俳句評論 『唐門会所蔵作品』『No.019 自筆原稿『句篇』その④―『句篇(四)-巨霊-』』 ■