小原眞紀子さんの『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』(第030回)をアップしましたぁ。『御法(みのり)』と『幻(まぼろし)』の帖を取り上げておられます。『御法』では源氏最愛の妻・紫の上が亡くなります。『幻』では紫の上の葬儀を終えた源氏が出家の決心(準備)をしつつ、紫の上の手紙を焼きます。何度も書いてるように、読者を惹き付けるためには小説冒頭のツカミが重要ですが、最も重要なのはやはり終局です。どんな風に物語を終わらせるかに、作家の全思想が現れることが多いからです。『源氏物語』はまだまだ続きますが、『幻』帖を最後に光源氏は姿を消します。亡くなるわけです。『御法』、『幻』帖は『源氏物語』最大のクライマックスであり、小原さんの読解も冴え渡っています。
紫の上の死で源氏は大きな悲しみと喪失感を抱えるのですが、女三宮だけは冷たい。『源氏は仏前の花が夕日に映えるのを褒めて、春が好きだった紫の上がいない寂しさをこぼします。・・・女三宮はそれへの応えとして「谷には春も」と言われます。・・・ようは私の知ったことではない、と言われたわけです』(小原さん)。その理由を小原さんは、『万能の神としての創作者のエゴとはすなわち、特定の登場人物の感情を通り一遍になでるようなものではなく、あり得るすべての感情、すべての判断を網羅しようとするものであり、一読者の感想や好みなどよりも、いっそう強く、広汎なエゴでなくてはならないと言えるのです。強く広汎なエゴであるからこそ、それをも捨て去った後に現れる彼岸への希求がリアリティを持ち得る』と書いておられます。的確な批評です。作品の中で紫式部は紫の上の死と光源氏の悲しみを表現しているわけですが、作家・紫式部の意識はその上位審級にあります。それが出家前の光源氏の姿に表現されています。
小原さんは『源氏が別人のように変化したということは、紫の上の死は源氏にとって、一人の恋人の死ではない、ということです。それは源氏自身の死でもある。彼の一部はたしかに、紫の上とともに死んでいます』と読解した上で、『源氏は出家の決意を固めます。・・・紫の上からの手紙を始末すべく・・・数人の女房たちに破かせて燃やします。・・・元旦の参賀の客のために、例年よりもいっそう華やかな仕度をさせます・・・これが源氏物語における、源氏の最後の姿です。・・・源氏が亡くなる場面が書かれている巻があるのではないか・・・という論があるようですが、私はそうは思いません。・・・源氏の最後の姿は、これでいいと思います。・・・出家の決意を固め、いつもの正月の準備を、いつも以上に華やかに整える姿。人の心に残る生前の姿としては完璧ではないでしょうか。まるで映像作品のようで、千年前の物語と思えないほど洗練され、心憎いばかりです。・・・素晴らしいラストシーンです』と批評しておられます。
『源氏物語』が仏教思想の影響を受けていることは昔から言われてきました。現世については同時代の人間は同じ現実を眺め、同じような感情を抱くわけですから、巧拙や事件の有無などの違いはあるにせよ突飛な物語にはなりにくい。なるほど事件は突飛なものとして描かれますが、関係者の心理は案外普遍的なものです。しかし彼岸については作家自身が定義(描写)しなければなりません。彼岸は抽象的なものであり、それは個々の作家の思想的観念から生まれるものです。
小原さんは『架空の登場人物たちは文字でできた存在ですから、テキストとして生き、テキストとして死ぬ。筆文字であれ、活字であれ、その生と死はテキストそのものとして、私たちの目前で永遠に再生され続けるわけです』と批評しておられますが、光源氏の鮮やかな去り際には、紫式部の彼岸に対する思想がこめられていると思います。彼は生前の姿そのままで、手の届かない向こう側に去ってしまった。見事なクライマックスであり、小原さんの読解も冴えまくっています。じっくり読んでお楽しみください。
■ 小原眞紀子 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』(第030回) ■