りょんさんの詩誌時評 『No.012 現代詩手帖 2014年7月号』をアップしましたぁ。今月の文学金魚はヴィジュアル系のコンテンツが多くなっていますので、りょんさんの『現代詩手帖』さん時評をアップしますですぅ。特集は『詩からアートへ/アートから詩へ』です。りょんさんは『こういう特集は、芸術新潮とかヴィジュアルのある雑誌でないと、ツラいかな、ってのが正直な感じ。言葉と絵の関係について、言葉でだけびっしり語られちゃってるってのは、ワンサイドストーリーじゃね、と思うわけさ』と批評しておられますが、不肖・石川もほぼ同感だなぁ。詩とアートの世界が近しいってのも、そんなに説得力のあるお話ではなひ、単なる幻想だと思います。
最近、北園克衛らを祖とするヴィジュアル・ポエトリーを高く評価する傾向が一部にあるやうです。装幀家を含むデザイナーがアイディアのソースとするのはよくわかるんですが、詩人さんたちが盛り上がるのはよくわかんない。自由詩は日本語表現の幅を拡げる前衛としてある時期まで機能してきました。ヴィジュアル・ポエトリーはそのような試みの一つだったわけです。前衛はあえてより困難な表現を探究する傾向がありますが、DTP出現以前の活版印刷時代には、視覚的に面白い版面を作り出すのはとても難しいことでした。つまりヴィジュアル・ポエットたちの試みには、ある時代特有の技術的困難を打ち破ろうとする意図があった。また詩は言語表現であり基本的には意味伝達の芸術です。ヴィジュアル+意味表現として本当に優れたヴィジュアル・ポエトリー作品は、非常に少ないのではなひかといふのが石川の素朴な感想です。
詩人さんたちは、どーも200年くらい前のロマン派時代に生きている人たちが多いやうな気がします。真顔で今にも『ミューズが降りてくるのを待っているんだ』とか言い出しそうです(爆)。でも21世紀の人間としてもっと厳密に考えた方が良い。北園克衛や春山行夫らのコンクリート・ポエムは、言語表現によって抒情性と意味伝達性を否定しやうとしているといふ意味で、戦後の現代詩の先駆表現だったと言うことができます。また高橋昭八郎らの試みは、よりアート表現に近い視覚的なものだったやうな気がします。しかしどちらの試みも徹底していなかった。彼らがもっと確信をもって試みを探究していれば、もそっと強い影響を詩の世界に与えられたやうな気がします。このような不徹底は、彼らの試みを安易に持ち上げている現代詩人たちにも共通しています。要するに雰囲気(アトモスフィア)で評価している。言語のプロならもっと徹底して分析しその意義を解明してほしいものです。
ほんで不肖・石川、編集者の職業病として、『現代詩手帖』さんはどうやったらもっと魅力的な雑誌になるんだろうと考えることがありまふ。余計なお世話のてんこ盛りですが、でもぜんぜん思いつかない(爆)。正直厳しいなぁと思います。『詩からアートへ/アートから詩へ』といった特集はスキマ的です。なにやらいわくありげですが、詩とアートを本気で結び付けやうとしている詩人が大勢いるわけじゃない。フツーにアートが好きな詩人がいて、学芸員などアートを職業にしている詩人がいるだけです。アートと言葉を結び付けることに情熱を傾けている詩人が存在しない限り、特集は説得力を持たない。来月になれば、執筆した詩人さんたちすらその内容を忘れてしまふような特集を組むのはけっこうな徒労でありまふ。『現代詩手帖』さんは原点に戻って〝詩とはなにか〟、〝現代詩とはなにか〟、〝戦後詩とはなにか〟といった特集を12ヶ月連続で組み続けた方が、まだ読者を獲得できるのではなひかと石川は思うのでしたぁ。
■ りょん 詩誌時評 『No.012 現代詩手帖 2014年7月号』 ■