小原眞紀子さんの『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』(第029回)をアップしましたぁ。今回は『源氏物語』第38帖『鈴虫』巻と第39帖『夕霧』巻の読解です。『鈴虫』巻の読解はすっきりしています。源氏は女三宮の住まいの庭に鈴虫を放ち、風雅な鈴虫の宴を開きます。冷泉院の元では月の宴が開かれます。小原さんは、『「月」とは言うまでもなく彼岸、あるいは「高いところ」への指向を示し、「虫」とは現世のことどもの象徴です。・・・至高のものは「見る」こと、すなわち視覚による観念あるいは詩想として捉えられ、現世の感覚的な魅力は「声」、「聴覚」で示される』と読解されています。お見事ですぅ。
んで問題は第39帖『夕霧』巻であります。この巻、なんかすっきりしない展開なのであります。源氏の息子で美貌も知性もそれなりに優れている(お父さんよりは劣りますが)夕霧が、柏木の未亡人・落葉の宮に言い寄るんですね。でもこの貴公子、煮え切らない。一晩がかりで落葉の宮を口説きますが落とせず、しかも朝帰りするところを、落葉の宮の母親の御息所の病気祈祷に来ていた律師(徳の高い僧侶)に見られてしまふ。
御息所は人生経験豊かですから、事実はどうあれ娘と夕霧の関係が人の口を介して既成事実として広まるだらうと予感して、夕霧に『はっきりしてちょ』といふ内容の手紙を送る。しかし夕霧はすったもんだしてるうちに返信を書くのが遅れ、御息所は急逝してしまう。落葉の宮は夕霧の優柔不断が母の死期を早めたと恨むのですが、夕霧の方は、人々が自分と落葉の宮の関係を既成事実と捉え始めてから重い腰を上げる。拒む落葉の宮を無理矢理妻にしてしまふのですね。ん~お父様の源氏のスマートさを見習っていただきたひ~。
小原さんはこの巻について、『「夕霧」の巻がきわめて今風の様相を示すのは、この人が現代で言うところの「オタク」青年の類いに近いからでもあります。夕霧は基本的に、自身の内面に閉じています。知能は高いので・・・すが、本来的に他者が苦手です。女癖が悪くなく、「まめ人」と呼ばれるのは他者である妻に対する誠意と愛情からではなく、単に彼本人の事情として、多様な他者である女たちと関わる能力に欠陥があり、自信がないことの結果であったに過ぎません』と読解しておられます。実も蓋もないですが、その通りでしょうね(爆)。
小原さんはまた、夕霧について『自身の内面に沈み込み、その場で動かない。つまりは他者がいないのですから、そうなりますね。・・・恋心が強いのではなく、自我への固執が強いのですから』とも批評しておられます。つまり第38帖『鈴虫』で描かれた、源氏による天(至高観念)と地(現世)を往還できるようなダイナミズムを源氏以降の貴公子たちは持っていない。『源氏物語』はつくづく複雑な物語でありますぅ。
■ 小原眞紀子 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』(第029回) ■