亀山郁夫氏の「新カラマーゾフの兄弟」が、600枚あるという。一読して非常に奇妙な感にとらわれた。これはいったい、何なのだろう。「小説」とあるのだから、小説には違いあるまい。ではなぜ「カラマーゾフの兄弟」なのか。
もちろん「新」とあるからには、別モノだというのは通る。実際、舞台も人物も雰囲気もまるで違い、良くも悪くも古典の姿は跡形もない。しかし目次には、「十九世紀の未完の名作が現代日本で甦る!/ ドストエフスキーの死で中断した謎にみちた物語を、あの名訳者が完結させる壮大な長篇」とある。「未完」を完結させるなら、なぜ「現代日本で甦」らせなくてはならないのか。
「死で中断」したことを問題にするなら、もし死ななかったらどうなっていたか、続きを厳密に推論すればよいのではないか。「現代日本」に置き換えることがチャレンジなら、完結した作品を選ぶべきではないのか。二つの実験的な試みをいっぺんに行うのは一見、意欲的であるように見えるが、成果が相殺され、何をしたいのかわからなくなる。
少しレベルの高い、小学生向けの理科の問題によくある。もし日光の影響を調べたいなら、植物 A と植物 B について、日光以外の条件は同じにしなくてはならない。もし水のあるなしを問題にしたいなら、日当たりなど他の条件は揃えなくてはならない。こんな単純なロジックすら全うされないのは、何かを目くらまししようとしているか、あるいは単純な混乱なのか。どちらがましかもまた、わからない。
わからないのは作品の意義だけでなく、作者のスタンスもそうである。亀山郁夫氏はロシア文学者で、「カラマーゾフの兄弟」を翻訳している。今回、初の小説だそうだが、翻訳家というものは普通、こんなことをしないような気がする。もちろん翻訳家が小説を書いてはいけないことはないし、逆に小説家が翻訳を試みる場合もある。しかし、それらはそれぞれ自らの職業意識の延長線上に、ある必然として行われたことを納得させるものである。
創作者はまず間違いなく、ある言語から他の言語へ移すという作業そのものを目的としているわけではない。その作品の抱える思想、創作の核と言えるものを共有しているのであり、作品構造や語り口を学ぼう、あるいは真似ようとしている。
学者など、翻訳家の翻訳は、作者に思想にそこまで肉薄することはない。が、それに代わる真摯なリスペクトがあるはずだ。細部の正確さ、辻褄が合うかどうかのロジックとしての整合性を誠実に探求し、作品全体への見識はその積み重ねの中から自然に作り上げられる。
そうであれば、翻訳家が創作に手を染めるとき、これまで手掛けたプレテクストへの深い畏敬の念がうかがえないということがあり得るだろうか。まずは恐る恐る、自我を露出することを始め、そこへプレテクストから得たエッセンスをなんとか流し込もうとする。作品のたたずまい、また自身の翻訳そのものをないがしろにしている感を与えかねない、乱暴な「新カラマーゾフ」にはやはり面食らうし、それは意表を突かれたといった快感からはほど遠く思われる。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■